れっくすのつぶやき

マイペースに色んなことを書いてきます

動物愛護の精神

最近全然更新できてないので久々に何か書きます。

 

 

動物愛護という言葉をご存知だろうか。

動物愛護という言葉は最近ではほとんどの人が知っている。だけどいまいちこの動物愛護の考え方を理解している人が少ないように感じる。最近では少々過激な人間たちが間違った考え方から動物愛護の運動をしているのも相まって、一般の間では動物愛護の思想は少々危険なのではなんてことも言われている。

しかしよく考えてみれば、動物愛護に反対する人間なんてほとんど見たことがない。誰だって動物を虐待したりみだりに殺すことは間違いであることを理解しているはずである。

やはり間違った考え方のせいで、動物愛護そのものが間違っているみたいな見方をされている感が否めない。そもそも動物愛護とはどのような考え方だろうか。

 

動物愛護の主体は誰か

動物愛護の言葉としてかなりの頻度で使われるのは主に「動物がかわいそう」「動物の気持ちを考えるべき」などだろうか。

単刀直入に言うと、前者は半分正解で、後者は間違いだ。

news.livedoor.com

少々古い記事だが、これは動物愛護の基本的な考え方を最も端的に表している。

小学校に侵入したクマを猟師が射殺し、それに対して多くのクレームが寄せられたというニュース。クマを撃ち殺すのが正しかったかというと、これに疑問を唱える人はあまりいないんじゃないかと思う。射殺するのをためらって、子供に被害が出ては元も子もない。

しかし注目するべきはそこではなく、むしろクレームの内容の方だ。

「子供たちの前で射殺という選択をとることは本当に正しかったのか」
「射殺することが正しいとは教育しないで欲しい」

クマを殺すことによって、子供たちに何か精神的な影響が出たり、倫理教育が間違った方向に行ってしまわないかという懸念がされている。これこそが動物愛護精神のエッセンスたるところだ。

なぜ動物をみだりに殺したり虐待してはいけないのか、その答えは、決して動物が可哀想だからという理由ではなく、その可哀想な動物を見た人間が、精神的な不利益を被ったり道徳教育が歪められたりするからだ。

結局のところ、動物愛護というのはやはり人間を主体において、人間のために存在しているということを忘れてはいけない。「動物のために」というような考え方では断じてない。

似たような考え方に、環境保護の精神があるが、これも言わずもがな人間を主体にしている、最近巷で話題になったうなぎ絶滅に関する議論も、大事なのはうなぎが絶滅することで僕らの食卓からうなぎがなくなったり、何かしら自然界に悪影響を及ぼして、それがまわりまわって最終的に人間に被害を及ぼすのではないかというところである。食卓からうなぎがなくなることに反対する人間は多くいただろうが、うなぎが可哀想だからという理由で絶滅反対を訴えていた人はひとんどいないだろう。

だから、動物愛護を考えるときには常に人間をピラミッドの一番上において考えなければならない、動物の気持ちなど人間がわかるはずもない。理解できるなら理解してみろ。動物愛護での間違った考えというのは概して「動物」の側を主体に置いてしまっている。そういった考えの人間はペットを可愛がったりしていることが多いのだが、ペット側からすれば飼われること自体が既に不快なんじゃないだろうか。そういう手合いは動物を主体に置いてる割にはまったく動物のことなど考えてはいない気がする。

 

動物愛護批判

このように動物愛護には間違った考え方もあり、そのような間違った考え方をしている人が動物愛護を標榜することによって、ネットなどでは動物愛護=やべー思想のように扱われている。

しかし一番厄介なのはその間違った考え方を批判しようとするあまり動物愛護そのものを批判しようとしてしまう人間だろう。

例えば上の記事で挙げたようなクレームに対しクレームを入れるというのがあるが、別に上のクレームが見当違いなクレームを入れているというわけではない。むしろしっかりと動物愛護の理念を理解したうえで、子供に悪影響がないかというクレームを入れている訳である。クレームを入れるのが正しいかどうかは別として、別に間違ったことは言っていない。これに対して偽善者だなんだというのは少々無理があるし、逆にお門違いな批判をすることで自分自身が動物愛護を理解していないのを晒してしまうことになる。

このツイートは分かりやすい。 

批判する側も、そしてそれを批判する側も間違っている。

イルカショーを批判するのであれば、不特定多数の人間が不利益を被ったり子供の教育に弊害が起きるという理由でなければならない。しかし、実際のところイルカショーを見て倫理観が曲がったり実際に被害を受ける人はいないだろう。ただ「イルカが可哀想」という理由だけで批判するのはお門違いもいいところだ。そしてそれに対するほんこんの意見もおかしい。

「どの動物で区切んねん、人間の差別やないか!」というのはそもそも動物愛護がそういう考え方の上で成り立っているのだからここを批判するのは間違っている。動物愛護が適応される動物と適応されない動物の違いは、「その動物がみだりに殺されたり虐待されていることが何かしら人間に不利益を与えているかどうか」で判断される。動物愛護の思想は差別してナンボだ。なにせ人間第一の考え方なのだから。

 

断っておくが、僕は動物愛護に基本的には賛成しているし、実際に動物を虐待したりするのは許されないことだと思っている。しかし、上にも挙げたように、世間での動物愛護の議論というのは、そもそも動物愛護がどういう理念を持っているのか、どういう考え方なのかは置いてけぼりで全く理解されないまま議論が進んでいるため、要旨があっちこっちに行ってまともな話にならないことが多い。その部分を放置して話を始めるというのは、言葉の定義も碌にせずに議論をするのと同義だ。

菜食主義や環境問題の話題についても言えることだが、議論において一番大事な本筋を見失うというのは、議論を何も生み出さない無駄なものにしてしまう。

動物愛護問題は、そういったことを考えるいいトピックなんじゃないだろうか。

 

 

 

 

 

Youtubeでトカゲの餌やり動画見てたらコメント欄が香ばしかったので。