れっくすのつぶやき

マイペースに色んなことを書いてきます

やる気

最近、何をするにも肩が重い。歳かなと思ったけど別にそこまで歳とったわけでもない。

話は変わるが、心理学には「作業興奮」と呼ばれるものがあるらしい。何それ?と思う人もいるだろう。簡単に言えば、やる気を出す方法だ。

普通、私たちのやる気と行動のプロセスと言えば、大概がまずやる気を出して、そしてそのやる気を持続したまま行動に移す。つまり「やるき→行動」というのが私たちの想像するごく一般的なプロセスだ。しかし、この場合だと、いわゆる「やる気がおきない、しない人」は、最初のやる気がそもそも発生しないので、行動に移すことが出来ない。これは大抵の人が陥ったことがあるだろう。

そんな時に私たちを正しい方向へと導いてくれるのが「作業興奮」だ。

作業興奮はやる気より先に行動から始める。ここが一番大事な部分で、やる気と行動の順番が逆になる。しかし、そんなことをしては行動にやる気が伴わず、結果的に無意味な行動になるのでは?と思う人もいるだろう。心配無用。作業興奮の仕組みは、作業、つまり行動によって自らのやる気を発生させ、そのやる気によって行動が持続するというサイクルになっている。「行動→やるき→行動の持続」という流れだ。

この流れによって、最初にやる気を出さずとも、とりあえず行動さえ始めればあとは勝手にやる気も湧いてきて、最終的には目的も達成できるというわけだ。

便利〜〜〜〜。

 

 

 

 

 

でもちょっとまて。

 

 

 

 

 

やる気を発生させるために行動から始めるのは分かったが、その行動を始めるためのやる気はどうすればいいんだろうか、、、。

 

 

 

 

 

そもそもやる気やる気って、やる気って一体なんだ。

 

 

 

 

 

例えばやらなければいけない宿題があって、やる気があればやる、やる気がなければやらないのだとしたら、このやる気を僕たちはどうやって確認するんだ。誰にも確認できないじゃないか。この場合、僕たちのやる気とか呼ばれる抽象的なものが唯一確認できる方法があるのだとしたらそれはただ一つ、宿題をやった時、あるいはやらなかった時だけだ。だけど僕たちは宿題をやるやらないを、このやる気を頼りに決定しようとしているんだから、すっかり循環論法にハマってしまう。

 

結局、大事なのはやるかやらないかというただ一点のみで、やる気とか、気持ちとか、愛情とか、思いやりとかは、なんの基準にもならないただの理由付に過ぎず、行動によってのみ僕らは定義されるんじゃないだろうか。

 

 

 

秋の終わりには実存主義の本が読みたくなる。

 

 

 

 

 

最近こんな駄文しか書けない。