れっくすのつぶやき

マイペースに色んなことを書いてきます

倫理とリアリズム

news.yahoo.co.jp

このニュースへのコメントで、男性が子供を助けにいったことへの評価が結構分かれていたのが目に留まった。ほとんどの人はこの男性の行動を素晴らしい行動だと賞賛していたが、一方でそのような行動は男性にとって非常に危険であるということが併記されていた。もっと極端なコメントでは「この男性は自身の危険を認識せず首を突っ込むバカだ」とかそういうことが書かれていた。

何かどこかで見たことのあるやり取りだな、と思い記憶を遡っていくと、似たような議論があったのを思い出した。

www.j-cast.com

女性にAEDを使ったらセクハラで訴えられるというデマが拡散され、色々と話題を生んだこのニュースだ。この騒動はデマだったので特に被害者はいなかったものの、そこから派生した議論で結構ラディカルな意見が多かったから驚いた記憶がある。

 

この2つは人命に関わるものだから極端な意見が目立つこともなく忘れ去られていったが、人命に関わらない程度であれば、このような問題は私たちの日常にゴロゴロ転がっている。そして、そういった問題が持つある種の”モヤモヤ感”は自分の中で何も片付かないままずっと見過ごされていたのだった。

「困っている人を助けましょう」とか、「人に優しく生きましょう」とかいう牧歌的な倫理感は現代ではもはや絶滅危惧種だ。学校の授業やスピーチなんかではこの手のフレーズは未だ使われているが、正直言って聴いている側も喋っている側も誰一人として信じちゃいない。

ホームレスに施しをすればたかられるし、女性にAEDを使えば訴えられるし、相手に柔和な態度をすればつけ上がられる。そういう世界で自分たちは生きているんだから、自分の身は自分で守らなくちゃいけない。「女性が困っていても手は貸さない、それはリスクだから」と平然と言ってのける知識人もいる。

この手の性悪論的リアリズムは現代で一種の”賢さ”と見なされている。彼らはお花畑のような倫理、あるいは理想を”馬鹿”の一言で一刀両断して見せ、生き馬の目を抜く強かさを持ったクールな知性が必要だと真剣に主張する。

私はこのリアリズムが間違っているなどとはどうしても思えない。それは、私自身がこの考え方に強烈な説得力を感じているからだ。そして、この考え方が(特に若い世代にとっては)これ以上なく素晴らしいものに映るということも知っているからだ。

しかし一方で、彼らのようなリアリストに対する些かの嫌悪感も私は見過ごさずにはいられない。「結局」とか「実際」とかいう言葉で修飾された”賢さ”に対して、なんとか抵抗しなければならないという強迫観念が常に付きまとっている。また、その強迫観念こそが唾棄すべきものなのかについても、最終的な判断を下せないままずるずると生きている。

私は、この倫理とリアリズムの決して決着のつかない綱引きこそが、私と同年代の(主に20代の)人間全てが抱える病理なのではないかと思っている。

同年代の人間と話していると、ここまで書いた内容と似たようなことを皆吐露する。巷で持て囃されている”成功者”やネット上のリバタリアン達が放つ”賢い”言論に幼いころから浸かりすぎた彼らは、すっかりリアリズムのイデオロギーに染まりきっている。しかし、そのような考えがいつかは自分に対して致命的な傷を与えうるということを皆本能的に感じ取っているのだ。

一方では「人に尽くせ」と言われ、また一方からは「搾取されるな」と言われるこのダブルバインドは、何も私たちの世代に限ったことではないのかもしれない。けれども、最初に挙げたニュースを見る限り、着実に前景化してきているような気がする。

 

そして私も、私の友人も、ただそれをぼんやりと眺めることしか出来ないでいる……。

ゲームレビューの読み方

エアプ認定の構造

エアプ認定は以下のようなスキームで成り立っている。

 

1.ゲームのプレイ内容とゲームの批評内容の間には必然性が存在する。

2.1の前提にしたがい、特定のゲームプレイ内容(X)の評価は(A)になるはずである。

3.レビュワーの評価が(B)であった場合、1の前提に悖る。

4.よって、彼が(X)を(B)と評価した理由は、彼が(X)を(B)と評価したのではなく、そもそも(X)をプレイしていないから(エアプだから)である。

 

普通に考えればこの推論が何かおかしいことに気づくが、なぜこの論理がネットの世界でここまで幅を利かせているのかを考えてみる。

 

昨今のゲームレビューに対する非難は論文査読のプロセスと非常に似ている。彼らは実際のゲームプレイ内容という”出典”に過剰なまでに固執する。間違えた評価/解釈はその”出典”に問題があるからだという論理を本気で信じている。この論理が彼らをここまで真剣にさせるのは、彼らがレビューという行為に対して「形式的な正解」という信念を持っていることの証左ではなかろうか。

 

正しいレビューの在り方

彼らの想定する「正しいレビュー」はまさしく次のようなものである。

 

 「レビューとは、そのゲームの普遍的、定量的な価値の分析である。それを行うためにまず、レビュワーはそのゲームにおけるトリビアルなものを含めた包括的知識だけでなく、そのゲームがどのような文脈にあり、またゲーム史上のどの部分に位置づけられるかを判断する総合的な知識も必要である。

それらを踏まえ、制作者がどのような意図を達成しようと試みているのか、そしてどれくらい達成しているのかについてその検証を行う。この作業にはカテゴリーに沿ったいくつかの客観的指標を参照し、これに従わねばならない。これら諸条件を達成したものが”正しいレビュー”としての価値を初めて獲得する。」

 

点数型レビューの形態は多かれ少なかれこの主張と軌を一にする。ゲームには正しく客観的な評価が成されるという暗黙の同意がある。点数はあくまで「レビュワーにとっての点数」であるという人もいるが、ゲームの価値を定量的に測定しようとする試みである以上、それらは何らかの絶対的な基準点との比較で語られる。

 

「レビューには正解がある」という考え方は役に立つことも多い。間違った知識を排除し正しい解釈に変更していくというコモン的営みはゲーム史といった分野において特に効力を発揮する。

しかしこの考えは必然的に、「どちらのレビューがより優れているか」という論戦に帰着する。ゲームに関する知識自慢・理解度比べに必ず陥る、断言してもいい。

こうして、そこに立ち会う全ての人間が「辿り着くべき正解」を目指して競い合う図式が完成する。そして「当然押さえておくべき」知識の羅列や循環参照を繰り返すうちに、レビューという行為はさながらクイズ大会の様相に向かっていくこととなる。もっとも、そこで得たイニシアチブこそが今日のゲームメディア・ライターの”権威”を支えているのかもしれない。

 

エアプ認定をするユーザーの主張はこの点数型レビューの理念をその理論的背景としている気がする。

 

ゲームを見るか筆者を見るか

点数型の見方はライターの権威を支えはするが、それ以外の批評アプローチに悉くなじまない。筆者の”主観”で書かれた記事を”事実”で分析していけばかならずどこかで壁にぶち当たる。実際に、ゲームキャラクターをフェミニズムの文脈で捉えたり、反意図主義の文法で好き勝手にクソゲーとこき下ろしたりするのは、この界隈では異常なまでに忌避される。それほどまでに、批評アプローチの多様化が分断を生んでいるということである。

 

私はゲームのレビューを見る際、「ゲームの価値」ではなく「書き手の価値」を見ている。私がゲームレビューを読むのは決まってそのゲームをクリアした「後」であり、私が知りたいのはそのゲームの「客観的評価」ではなく「レビュワーが何を感じたか」の方である。「BotWの歴史的意義」よりも「名越康文先生のBotW」を選ぶ傾向にある。

私とは対照的に、人ではなくゲームそのものの価値が知りたいという方もおられるだろう。メタスコアや点数型メディアのレビュー、あるいは権威ある業界人の記事を見ながら、そのゲームの客観的価値を自ら形成していこうとする人々である。

どちらがいいという話ではなく、「このような読み方を自分はしている」と自覚することがまず大事な気がする・・・よね?

「バトロワゲー」が流行ったのは若者が競争を嫌ったからというのは本当か?

2018年から2019年あたりのゲーム市場評をふと眺めていたら、こんな文言があった。「最近のバトロワゲーが流行っているのも、若い世代がゲームで争うことに疲れたから、あるいは、ゲームで負けることをとことん忌避しているからだ。」

これは本当だろうか?

特定のゲーム、ゲームジャンルが流行することには必ず何かしらの理由があるはずだ。しかし私はその理由を分析する際に、何でもかんでも若い世代のゲーマーの気質や特性に還元しようとする分析には、非常に懐疑的だ。

僕は若い世代のゲーマーが「競争で負けるのにうんざりしてる」などとは微塵も思わない。

僕の考えでは、バトロワゲームが流行ったのはむしろ「競争性を煽ったから」だと思う。

バトロワゲームの精神的な源流にあるのはサバイバルゲームだ。バトロワゲーを流行らせる起爆剤となったのは『PUBG』だが、僕はその前段階には『DayZ』が置かれるべきだと思う。『DayZ』はオープンワールドのマップで生き残りを目指すサバイバルゲームだが、このゲームでは他のプレイヤーは敵にもなるし味方にもなる。そしてその判断は全てプレイヤーに委ねられている。

MMOにせよ大規模系FPSにせよ、大人数のマルチプレイゲームはめちゃくちゃ面白い。そしてその面白さは、「各人がプレイヤーであるということ」によって保証されている。それぞれ単一の個人が、コンピューターによる制御ではなく意志を持って動くことで、そこには非常に人間的、社会的なダイナミクスが生まれる。そのダイナミクスに飛び込み自身が巻き込まれていく、そしてその一部となる、という感覚こそが、大人数マルチプレイの醍醐味であり本質であると僕は思う。もちろん先ほど述べた『DayZ』もこの大人数マルチプレイの面白さの原則にしっかりと則っている。他のプレイヤーに出会ったとき「撃ち殺すか」「協力者となるか」「協力者になるように見せかけて裏切るか」というのをゲームは強制しない。そこでの判断は全て個々人や集団の「あるがまま」に任せることで、プレイヤーはそうした世界に身を投じること”それ自体”に快感を覚えるのである。

バトロワゲームの革新性というのは、そのダイナミクスに介入し、意図的に修正したことにあるのではないか。

バトロワゲームは他者の扱いを一義的に決定する。他のプレイヤーに出会ったらそこで提示される選択肢は「殺す」か「逃げる」であり、友好的な選択肢は残されていない。そしてマップの範囲は徐々に縮まっていくので、プレイヤーは独自に生きることもできない。ゲームシステムが要求するままに「競い合い」「奪い合う」ことに従わなければならない。バトロワゲームの本質は元ネタとなった映画と同様、まさしく「強制的な殺し合い」にある。

そしてそれが大ブームとなったのである。これがどうして「競争嫌い」という結論になるのだろう。

確かに、それまでの競技性の高いゲームが真剣な競争の世界であったために、バトロワゲームの「順位」の概念が精神的なストレスを少なからず緩和してくれるという考えもできるだろう。しかし、バトロワゲームが「それまで明確であった勝敗の意識を希薄にした」のではなく、「それまで勝敗の概念が希薄だったものに、強制的に勝敗を競わせるシステムを導入した」と考えられない理由もないはずである。そして2018年から2019年にかけてe-sportsの潮流が日本で起こり始めたという事実も含めて考えれば、後者の方が考え方としては妥当なのではないか?と思えるのである。

そしてもし後者の考えの方がより妥当であった場合、そこから導かれる結論は次のようになる。

「最近のバトロワゲーが流行っているのも、若い世代がゲームで争うことを何より欲しているから、あるいは、ゲームでは”勝つこと”を至上の喜びとしているからだ。」

もちろんこれも間違いだろう。だけど最初の分析よりは、「そのゲームシステムがどこから来たものか」や「他のゲーム産業の流れ」を根拠としている分、随分ましなものなのではないかと思うのである。

というようなことを、一人ボーっと考えていた。

GameSparkの炎上記事を読んで

東京オリンピック、始まりましたね。緊急事態宣言中の開催で感染者も増え続けている今、いつ中止になってもおかしくないと思いながら、選手が頑張る姿を見ています。今日はそんなオリンピックに関する話題。

 

www.gamespark.jp

 

東京オリンピックの開会式でゲームのBGMが使われたことに対するGameSparkのコラム。タイトルからして明らかに炎上狙いなのが透けて見えるが、ブログのネタぐらいにはなるだろうと思うのでこの記事についていろいろと読み解いていこうと思う。

 

7月23日、東京オリンピックの開会式が催された。相変わらず東京での感染拡大は予断を許さない状況ではあるが、無観客といえど会場の周囲には多くの人間が集まった。同日朝にはブルーインパルスが飛び、その様子を見るために多くの人々が屋外で空を見上げた。個人的には何から何まで乗れないまま始まったオリンピックだが、人々はさっそく怒りや恐怖から麻痺し始めているようだ。金メダルを取れば人々はすべて忘れるだろう、というような考え方も信憑性を帯びてきたように感じる。それが何より腹立たしいし、医療現場の人々のことを思うと、あまりにやるせない。

 

記事冒頭はこんな書き出しから始まる。ここの部分を読んだ限り、僕の読み方が正しければ、この記事は東京オリンピック開催の是非について論じているものであるように見える。

 

死者数は確かに減っているようにも見えるが、新型の「デルタ株」も日本に入ってきており、インド(言うまでもなく温暖な国だ)では400万人以上が死亡した、との見方もある。インドにおける正確な死者数はさておき、7月24日時点のWHOの報告でも累計で1.9億人超が感染し、400万人以上が亡くなっているわけで、さすがに「風邪と変わらない」というのは無理だろう。無観客だから問題ないといった見方もあるが、選手間でも感染は始まっているし、五輪関係者への検査数が明らかに都の検査数を逼迫しているという現状がある以上そうはならないだろう。「バブル」とやらも、到底機能しているとは思えない。

 

現在日本は緊急事態宣言中で、はっきり言ってしまえばオリンピックどころではない状況だ。開催できただけでもありがたいと思うべきだし、これからの状況によっては中止される可能性もゼロではない。そのことを認識し、世に問うというということは、(ゲームメディアに乗せるべきかという問題は別として)まあ納得できる。

 

東京では病床は枯渇し、緊急事態宣言が出ている。「酒類の販売規制のため金融機関から圧力をかけるよう働きかけろ」というような要請が問題視されたのは数日前のことだった。彼らが言うには、東京は今まさにろくすっぽ酒も飲めないような緊急事態のはずだ。なのに数万人規模で人の行き来のあるイベントが今まさに進行中である。2つのまったく矛盾している事案が同じ国家/自治体という同じ主体によって行われていく様子はまったく理解不能で、地下芸人のコントのように不条理だった。当事者じゃなければもしかしたら笑えたのかもしれないが、我々の大半はワクチンも未だ摂取できないまま、感染リスクや、やがて来るであろう大増税の気配に怯えている。

 

気になるのが、前の段落でもこの段落でも、そして次の段落でも、やたらと筆者がマジックワードを使っている点だ。「~という見方がある」「我々の大半は」などの、行為の主体である主語をぼかして書いている。「社会が悪い」「意識を変える」「話し合うべきだ」というような文は、さももっとらしいことを言っているが、その実態は何も言ってないに等しい。このようなマジックワードを書くことは、あらゆる媒体に関わらず、文章を書くのを生業とする人間がもっともやってはいけないことだ。学校の文章作法の授業では絶対最初に習うような内容で、ライターであれば心得ておくべきものだ。この時点でこの記事が読むに値しないものであることが分かる。序盤に3段落も使って東京オリンピックについて述べているわけだが、「~という見方がある」とはいったい誰がそう言ってるのか、「我々の大半」とはいったいどれくらいなのか、アンケートでも実施したのか。そういう肝心なところが抜け落ちているせいで、ほとんど説得力を失っている。はじめから「私は~」「GameSparkは~」という風にすれば、主張の是非はともかくとしてまともな文章として読めたが、これでは某新聞社の世論操作と何ら変わらない。新聞社説の真似事をしたかったのかもしれないが、真似をするならするなりに、その様式は守るべきだろう。

 

それはさておき、ここまで読むとこの記事は本当にゲームに関連する話なのかと思ってしまう。ここまで「ゲーム」という単語はほとんど出てこない。

 

各紙によってバラつきがあるが、オリンピックに反対する国民はおよそ半数以上に及んでいる(少なくとも開会式前はそうだった)。東京大会の「延期」(中止ではなく)を決定した安倍晋三前首相によれば、オリンピックに反対するのは反日的な人々であるらしい。(国家運営の中枢たる国会で118回に渡り虚偽答弁をする人間を普通「愛国的」とは言わないと思うが……。)ともかく、オリンピックを楽しむかどうかにはすさまじく政治的な角度がついている、ということは確かで、それは「愛国/反日」などという簡単な二項対立では到底語ることができない(そもそも「愛国であれば良く、反日であれば悪い」という簡単さはどこからやってくるのだろうか?)。

長々と書き連ねてしまったが、僕が何を言いたいかというと「オリンピックを楽しむことももはやかなり政治的」ということだ。自治体や政府によって強行開催され、そのために多額の税金(都税だけでなく国税も含む)を投入して省庁まで作られ、いま、人命軽視や感染拡大をある程度許容するという取捨選択によって行われている。それでもオリンピックを楽しむというならそれは一つの考え方だろうが、もし死者数が増えたり、デルタ株が蔓延したりした場合には(そうなってもおかしくない状況だ)その責任の一端を負うということだ。そんなの真っ平御免だから、僕はオリンピックを見ることはしない。いくら大好きなソニックに言われてもだ。

 

この辺りから、文章がやや支離滅裂になってくる。何を言っているのか分からないという批判も、大体ここの部分から始まっているのではないか。個人的な意見だが、この文章は国語の読解問題に最適な文だと思う。国語の入試問題で出てくる文というのは、基本的には悪文だ。良い文章というのはだれが読んでも、高校生が読んでもすんなり内容が理解できる文章のことであって、一目見ただけでその内容が綺麗に伝わる。

しかし誰でも理解できる分かりやすい文章など出しても全員100点となるだけなので、当然そんな素晴らしい文章は入試問題に使われることがない。だから国語の問題で出てくる文章はだいたい読みづらい「悪文」である。悪文の条件は「語彙の使い方や表現がおかしい」「一目見ただけでは何を言っているのか分からない」「論理構造が破綻している」など様々だ。そしてこの記事はまさしくその条件に見事に合致している。全国の高校生に「この文章は何を主張しているか述べよ」と問題を出したいレベルだ。

話がそれてしまった。ではこの文章について考えていこう。

まずここでの主張の最たるところは、太字にもなっていることからもわかるように

オリンピックを楽しむかどうかにはすさまじく政治的な角度がついている

オリンピックを楽しむことももはやかなり政治的

 の部分とみてよかろう。「政治的な角度ってなんだよ」と言いたくもなるが、ここで言いたいことはおそらく、「オリンピックを見て楽しむことはそれ即ち現政権への肯定に他ならない、それを自覚せよ」というくらいの意味だろう。もちろんその根拠はどこにも記されていない。

この時点ですでにおかしいのだが、問題はそこではなくその後の部分にある。

それでもオリンピックを楽しむというならそれは一つの考え方だろうが、もし死者数が増えたり、デルタ株が蔓延したりした場合には(そうなってもおかしくない状況だ)その責任の一端を負うということだ。そんなの真っ平御免だから、僕はオリンピックを見ることはしない。

 ここの部分は本当に一読しただけは意味不明な文になっている。「コロナウイルスが蔓延して死者数が増えた場合、その責任の一端を負う」と述べられているが、その「責任を負うこと」と前後の「オリンピックを見る見ないの部分」との関連性がほとんど見いだせない。「そんなの真っ平御免だから、僕はオリンピックを見ない。」とあるこの部分、どう読んでも「僕は責任を負いたくない→だからオリンピックを見ない」という意味にしか読めない。しかしだとすると、責任という言葉の意味がおかしくなってくる。ここでいう責任の一端というのは即ち「コロナによる諸々の不利益」という意味での責任だろう。「オリンピックだからと言ってバカ騒ぎして密集している人たち」を啓蒙する意図であればまだ意味は通る。そういった軽率な行動が、後々自らに責任(コロナによる不利益)として降りかかる、という内容であれば、十分啓蒙になりえただろう。しかし、この文はオリンピックを見るか見ないかを議論の焦点にしているので、結果意味不明な主張になっている。無観客のオリンピックをテレビで見ただけでコロナの被害を受けるわけではないし、オリンピックを見てないからと言ってオリンピックそのものが中止になるわけでもない。政治や社会の影響は国民すべてが受けるものであって、オリンピックと何の関係もない。政治責任という意味で使っているのだとしても、その責任は内閣及び与党がとるものであって、国民がとるものではない。どちらの意味にせよ、この文の内容とかみ合わない。

この前の文とも併せて考えると、大体話の流れとしては

 

 

「オリンピックは政治的なものである。」

       ↓

「そんなオリンピックを見て楽しむことは、現政権を無自覚に肯定することでもある。」

       ↓

「そしてオリンピックを見る(政権を肯定する)ことによって生じる責任(コロナによる不利益)を、私たちは負わなければならない。」

       ↓

「だから私はオリンピックを見ない。」

 

ということになる。

 

詭弁もいいところだろう。この記事の前半部分は、読者のゲーマーに政治意識を持たせることを意図して書かれていることが分かるが、それを書く筆者自身の政治意識があまりにも無さすぎる。

オリンピックが政治的な要素の絡むイベントであることはもはや自明だろう。記事内ではオリンピックが政治的意図によってごり押しで開催されている旨を書いているが、そんなこと当事者である日本人が一番知っている。オリンピックに関するニュースがどれも政治と結びついてることなんて、言われなくても分かっているのだ。

この筆者の根本的な誤謬は、オリンピックを見る見ないという些末な要素を、まるで政治的運動かのように語っているところだろう。

日本という国は民主主義を採用している。国の主権は国民であり、国民によって政治が行われる。そんな「国民による政治」の全てであり象徴でもあるのが、選挙への投票である。国民が政治に直接関わる唯一の方法は選挙か立候補のみであって、断じてオリンピックを見ないことではない。オリンピックを見ないのは筆者の勝手だが、そんなどこぞの国の不買運動みたいなことを、まるで一つの政治活動のように誇らしげに語るのは滑稽でしかない。責任を負うなどとしたり顔で書いているが、こうしてコロナ禍で強引にオリンピックが開催されていることこそ、既に国民が責任を負っている状態である証拠だろう。小池百合子菅義偉が政権を握っている今、それらに投票した、あるいは投票しなかったすべての日本国民が責任を負っている。この悲劇が日本人の政治意識の低さによって引き起こされたものであるのなら、もちろん反省し改めて政治について考えなければならないが、この筆者にとってはそんなことよりもオリンピックの開会式を見るゲーマーの方が、よっぽど憂うべき問題らしい。そんな程度の認識しかもっていないような人間が政治意識を啓蒙しようなどと考えるのはまさに愚の骨頂だろう。記事の最後で「秋には衆院選が」などとよく書けたものだ。

…というのがここまで読んだ感想である。

 

どれだけ距離を置きたくても、このご時世オリンピックの情報を一切遮断することは難しい。開会式では様々なゲーム音楽が使用されたとのことだ。見てないし今後見ることもないので詳細はわからないが、すぎやまこういちによる『ドラゴンクエスト』の曲も流れたらしい。比べるものでもないが、すぎやまこういちが過去にした「オリンピック精神にもとる」問題発言の数々は、それぞれ過去の問題発言や行為を指摘され辞職や解職に至った小山田圭吾小林賢太郎に劣らない。海外を含め、その目が敏感になっている現状で、オリンピックにおいて氏の楽曲が使用されることの意義について糾弾されることになってもなんら不思議ではないだろうし、現にそうした報道も海外で散見される。勘違いされると困るので言っておくと、これは「『ドラゴンクエスト』を遊ぶな」とかそういうことでなく、オリンピックにとって適切かどうかという話だ。

 

記事中盤になってようやくゲームの話が登場するが、ここからの内容は前の文章の議論と全く別の方向に進んでいる。実際に開会式を見ていないことは、もはや問題ではない。すぎやまこういち氏の過去の発言云々についても、ここでは言及しない。問題は、この章の文が前章の文からぶつ切りに展開されることで、「そもそもこの記事が何を言いたい記事なのかがさっぱりわからなくなってしまっている」点だ。前章の文だけを見れば「オリンピックと政治意識」であったテーマが、ここにきて急に変わっている。このような構成になるのであれば前章はいらなかったのではないか。そもそも記事のタイトルからして、筆者の問題提起は「オリンピックでゲーム音楽が使われることの是非」なはずだ。しかし前章では長々とオリンピックと政治についての自説を披露し、ゲームのゲの字も出てこないし、この章ではすぎやまこういち氏の問題発言がなぜ小山田氏や小林氏のようなキャンセルカルチャーにならないのかというところが主題となっている。

 

ここ一年で流れたニュースによって分かったように「商業オリンピックの本質とは邪悪であり、差別主義者が作った音楽が流れるべき」とするなら、すぎやまこういちはまさにこれ以上ないほど適任であるだろう。しかし開会式では他の様々な楽曲も用いられたということだ。『ファイナルファンタジー』や『サガ』シリーズは、“かみ”を殺したり、環境テロリストが主人公だったり、その世界の仕組みそのものを恨むような反権威的なシリーズのはずだ(もちろん解釈は人それぞれあってよいが、少なくとも僕はそう思う)。件の『ドラゴンクエスト』シリーズ然り、その他の作品にも、単に勧善懲悪の(悪は滅ぼすべき存在であり、みんなで団結し消滅させれば小さな問題は考える必要もない)短絡的なメッセージをもつ作品は少ないのではないだろうか。そういうものが、本来そのゲームがもつ文脈とはかけ離れ、こんな時だけ(香川県の例を思い出してほしい)国や自治体に都合よく切り出されて使われるのは、ビデオゲームファンとして全く許しがたいことだった。

 

話のテーマ自体は前の章よりもまともだろう。すぎやまこういち氏がもし本当に差別主義者であったのなら、その問題点をゲームメディアが突っ込むことには意義があるし、ゲームへのリスペクト云々の話ならば、主張が妥当かどうかは別として、読者のゲーマーも共感できる内容になっていたのではないだろうか。個人的な見解だが、批判の一つである「作品のもっているテーマ性を無視してその表層だけを掬い取ること」は、むしろゲーム側が積極的に行ってきたことではないだろうか。例えばFPSゲームひとつとっても、「暴力や戦争という、ともすれば重いテーマを内包しているものをエンタメとして遊ぶ」という危険なことを行っているし、ゲームの中で描かれる文化やカルチャーを完全にリスペクトしきったゲームというのは圧倒的に少ないように感じる。

何にせよ、「暴力的な要素を含むゲームのBGMを平和の祭典で使うことはどうなのか」という議論を、ゲームの側から行うことの意味は大きい。しかしこの記事が主張したいのはそこではないだろう。

 

僕がなにより絶望したのが、同業のゲームライターたちをはじめとして、ゲームファン、クリエイター、インフルエンサー、場合によっては作曲家当人もが、この件に感動しここまで指摘してきた諸問題を見なかったかのように「ゲームが認められた」というような論旨の発言を恥ずかしげもなく振りまきだしたことだ。国威発揚に都合よく利用されることは認められていることとは全く違う。同性婚の認められていない国で虹色のドレスが登場するのと同じで、つまりは「利用価値があるうちは、使ってやる」と言われているだけだ。表現は不当に規制され、バッシングの矢面に立たされてきたビデオゲーム文化を、こんな時だけ都合よく使われるのは(繰り返しになるが)本当に許しがたいことだ。ゲームというものは一人で作るものではないし、『ドラゴンクエスト』シリーズも、最新作では同性婚を実装するなど、一人の思想だけが反映されるわけではなく、進歩の兆しをみせてきたはずだ。そうした政治的に一枚岩でない集団の成果物としてのビデオゲームのイメージをここまで「政治的」なメッセージを持つイベントに借用すること自体に問題があるということも指摘しておきたい。

とにかく、今回の開会式にはムカついた。それについてビデオゲームライティングに携わってきた自分が批判的な目線を向けられないのであれば、それは批評の死だし、自分の「ゲームレビュー」にどれだけの価値があるだろうか?そう考えて今、机に向かっている。

 

 ここの部分は、筆者が感情論丸出しでまともな思考を放棄しているのがよく表れている。

よく目にする「五輪と政治は分けて考えるべきだ」という主張には、僕はおおむね賛成だ。どれだけオリンピックが盛り上がったとしても、日本がいくつ金メダルを獲ろうとも、それはオリンピックの成功とは何の関係もない。何を以て成功とするのかという定量的判断基準がないのをいいことに、IOCや東京都は必死に「オリンピックはコロナを乗り越え成功した」という既定路線を推し進めようとしているが、これについて国民は批判的であるべきだと思う。開催決定後のゴタゴタや開会式の質の低さといういくつもの問題は、たとえオリンピックが盛り上がったとしても忘れられるべきものではないし、オリンピックが終了しても追及し続けるべきものだ。しかし、何度も言うようだが、そのような現政権に対する追及とオリンピックそれ自体は、分けて考えるべき問題だ。まともな思考を持った人間ならそのような線引きはできて当然だ、選手村で反日横断幕を掲出しオリンピック憲章に違反した韓国人漫画家の一件も、そのような線引きができないことによって引き起こされたものではなかったか。

 

……語気が荒くなってしまったが、もちろん「オリンピックを楽しむ」という立場はあり得る。あり得るがそれも「反対」と同等(かそれ以上)に政治的な意味合いがある、という自覚をもった上で楽しんでほしい。「ゲームファンだからゲームの音楽が流れると純粋に嬉しい」という素朴さだけでは全く語れない様々な機微がそこにはある。ゲームファンの中にだって直接的であれ間接的であれコロナによって亡くなった人もいるはずだ。それだけではない。家族でコロナを失くした人もいれば、時短営業により経営難に陥ってしまった店の店主やその家族もいるきっといるだろう。彼らの血や涙の上に新国立競技場は屹立していて、その上で「国家が承認する最良の娯楽」たるスポーツ大会が行われる、という構図になっている。

そういう機微を想像すること、“描画されない”物事への「想像力」はゲームファンの、いや、すべての創作物を愛するものの武器であるはずだ。我々はゲームを遊ぶことで様々なことに想像を働かせてきたのではなかったか?「反対」だけに政治性を押し付けないでほしい。気難しいバカだけが反対していて、何も考えずに楽しむのが賢いなどと考えないでほしい。

 

素朴さだけでは語れない様々な機微とはいったい何のことを言っているのか。コラムというのはそう言った機微を、筆者が考えに考え言葉にする場所ではないのか。

「想像力」という言葉を使って語られているこの文は、論理的な文で無理に書こうとしていない分前半の文章よりも分かりやすさという点では勝っている。要約すると「オリンピックでゲーム音楽が流れたときに喜べなかった人たちのこと、時々でいいから思い出してください」といったところだろうか。この文章だけで終わっていたら、まだ傷は浅かっただろうなと思う。

オリンピックを楽しむのも大事だが、もっと大事なのはオリンピックについて考え続けることだ。残りかす程度ではあるが、この文章からはそういったメッセージを感じ取ることができる。だけど、かなしいかな、この文は二つの間違いを犯している。

まず一つは明らかな自己撞着に陥ってしまっている点。

そういう機微を想像すること、“描画されない”物事への「想像力」はゲームファンの、いや、すべての創作物を愛するものの武器であるはずだ。我々はゲームを遊ぶことで様々なことに想像を働かせてきたのではなかったか?

 やたらとエモーショナル書いているが、言ってることは単純明快、「俺の気持ちを考えろ」ということに過ぎない。しかしながら、ここで筆者が言う「想像力」とやらを、筆者自身ははたしてゲームクリエイターたちに働かせたのであろうか?

ゲームの音楽が日本開催のオリンピックで流れるということは、ゲームがその国の文化として世界に発信されるということだ。大衆からの風当たりが強かったゲームというものが、日本を代表する立派な文化として世界に紹介される。そこで感じる誇りや喜びは想像に余りある、それに携わってきた人間にしか味わえない感動だろう。ゲームクリエイターだって馬鹿じゃない。こんな状況でのオリンピックで流れるのが本当にいいことなのか、こんな雑な流され方で素直に喜べるのだろうか。クリエイターもそういった葛藤を抱えて、それでも筆舌に尽くしがたい思いがあったからこそ、こうして喜びをツイートしているかもしれない。そういった機微に、この筆者は少しでも想像を巡らせたのだろうか?そのようなことを少しでも考えたのであれば、少なくともこんな駄文をゲームメディアに乗せるなどという考えには至らないだろう。言ってることとやってることが完全に矛盾している。

 

もう一つの間違い、これも結局のところ自己撞着である。

「反対」だけに政治性を押し付けないでほしい。気難しいバカだけが反対していて、何も考えずに楽しむのが賢いなどと考えないでほしい。

 勝手に被害者面をしているが、政治性を押し付けているのはどちらか。

オリンピックの開会式でゲーム音楽が流れて嬉しいというだけの人間に政治性を押し付けて、オリンピックを見ないことが賢いなどと考える。とどめにはクリエイターを何も考えず楽しんでいる馬鹿と決めつけ、ここに書いてあることすべてが自分にも当てはまっている。自分で書いていて気付かなかったのだろうか。だとしたら相当な馬鹿である。

ここまで炎上して注目されれば少なくともひっそりと忘れ去られることはないだろうから、筆者としては本望だろう。

 

ここまで記事を見てきてお分かりの通り、この文章はまともな提言を何一つ行っていない。社説ではなくコラムなのだから別に提言は必要ないのだが、はっきり言って、コラムとして読んでも筆者が何を言いたいのか理解するのに相当な苦労がいる。しかし、この記事を読んで「けしからん!」とただ批判するのは、この記事がゲーム音楽に喜ぶゲーマーに「けしからん!」と言っているのとほとんど大差ないだろう。大事なのは、ただ怒りに任せて「こんなことはいけませんね」と小学生でも書けるようなことを書くのではなく、そこから一歩進めて「なぜこんなことになったのか」というところまで視点を広げてみることだろう。それができなければ、どんな綺麗ごとを述べたところで建設的な提言などできようもない。そして僕の見たところ、今回の記事についてもオリンピックのゲーム音楽についても、そのような建設的な意見を載せているメディアはまだ出てきていない。

 

秋には衆院選がある。もちろん選択は自由だが、老人たちに「ゲームファンは大増税しても何しても、ゲーム音楽を流してれば文句言わずに従うチョロい連中」などと思われないことこそが本当にゲーム文化を守ることや、リスペクトすることにもつながるはずだ。オリンピック開会式が本当にゲーム文化をリスペクトしたものであったか、そしてそもそも東京オリンピックがこのまま行われるべきなのか、今一度考えてみてほしい。

 

筆者とGameSparkの本音として書きたい部分は、恐らくここだけだろう。これより前の文はすべてこの最後の段落を書きたいがための前振りに過ぎない。筆者のTwitterを漁ると、今回の記事はGameSpark側からの依頼で書いたとのことだ。そのGameSparkもどこかからの依頼で今回の企画を請けたのかもしれない。

開会式から記事が出るまでの早さや、あまりにも杜撰な文章を見るに、「オリンピックに合わせて、与党への批判を、何とかゲームに絡めて書いて炎上PV稼ぎを」というアイデア自体はGameSparkにもともとあったのだろう。リオの閉会式を見れば、日本がオリンピック本番で何かしらゲームに絡めた演出をしてくることは素人でも予測できる。そんな中で、開会式でのゲーム音楽は、開会式全体のしょぼい内容も相まって、政治を絡めて批判するには絶好の対象だ。飛びつく判断に遠慮はいらなかっただろう。GameSparkとしては、正直何でもよかったのだと思う。はじめから結論ありきの記事なのだから、そりゃ論旨もめちゃくちゃになる。こんな文を書かされるライターも気の毒だ。

 

ゲームメディアが情報だけではなく提言を発することは素晴らしいことだと思う。メーカーに懐柔されない独立性もまた重要だ。しかし、それを実現するにはゲームに限定されない広い問題意識と広く物事をとらえる視野が必要だと思う。それっぽいことを並べるのは提言とは言わない。ましてやそのやり方を誤れば、今回のような失態をさらしてしまうことにもつながる。どうかGameSparkにはこの記事を削除しないでほしい。どのみち後には引けない状況だろうが、こういった主張を社として乗せた以上、未来永劫その姿勢を貫いていくのがせめてもの筋だろう。

僕の読み方が間違っているかもしれないので、そういった部分があればぜひともコメントなどで教えてほしい。GameSparkの記事に賛同する意見も同様だ。

 

 

正直ゲームメディアにはがっかりした。

E3 2021

 今年もE3が終了した。去年はコロナウイルスの影響で開催中止となったので実に2年ぶりの開催となった。

 

 僕も眠い目をこすりながらリアルタイムで見ていた。さすがにすべての配信を追うのは不可能だったが、有名どころはほとんど見た。で、終わった後に思ったのは、「E3って一体何のイベントだったんだ」ということ。

 まず、サプライズが圧倒的に少ない。ゲームのカンファレンスと言えば「大作ソフトの発表」というイメージが強いが、新規タイトルに関して盛り上がったのはベセスダの『Starfield』ぐらいだった。その他はたいしてパッとしない印象で、天下の任天堂マリオパーティメイドインワリオなどのシリーズタイトルを発表していたが、どちらも既存のシステムを焼き直しできるシリーズで、規模からしても大作というほどのものでもない。ゼルダの新作についても、前々から発表していたものの開発中画面をちょろっと公開しただけで、『ELDEN RING』と比較するとトレーラーをきちんと仕上げてきたという感じではない。「何も出さないのはさすがにまずいかな」という姿勢が見て取れた。

 実際に何も出さなかった企業もある。スクエニカプコンは期待されているものが一つも出なかった。スクエニは「FF16」、カプコンならモンハンのアプデ情報や「ドラゴンズドグマ」などのIPの続編がそれぞれ期待されていたが、ともにしょぼい発表に終わった。

 もちろんこれに憤るユーザーもいるだろうが、だからと言って両社を批判するのは筋違いだろう。スクエニカプコンもE3前にSNSで発表内容を告知しており、そこには重大情報を発表するなどどこにも書かれていない。言うなれば「大した発表はしませんよ」という予防線をしっかり張っているわけであって、それに対して「ほんとに大した発表がなかったじゃないか」とキレ散らかすのは滑稽でしかない。

 そういう炎上ともとれる荒れ方をしているのを見て思ったのが、どうもE3というイベントに対してユーザーと業界側の認識がずれているんじゃないかということだ。そもそもE3というのはユーザーのためのイベントというよりも業界人のためのイベントという側面がある。E3はもともと北米市場における家庭用ゲームとPCゲームの流通向け「商談会」と、メディア向け「発表会」として発足したイベントだ。主催は米業界団体のエンターテインメントソフトウェア(ESA)協会だ。日本よりも国土が広く、物流や宣伝コストがかかるアメリカでは、年末商戦にむけて重点ソフトを流通会社やメディアにアピールし、受注をとったり、取材を増やす機会が求められた。こうした背景で生まれたのがE3だ。それがインターネットの普及やゲーマーの盛り上がりに呼応する形で発展し、「E3=大作発表の場」というイメージが出来上がった。今の状態は言ってしまえばユーザーが勝手に期待して勝手に落胆しているにすぎない。期待するもしないも勝手だが、それを企業にぶつけて怒りを発散するのはおかしな話だ。

 しかしまだ疑問は残る。E3がメディア向け「発表会」としての役割も持っているなら、なぜ大企業は軒並み大した発表ができなかったのか。これには、「したくてもできなかった」という面と「そうする必要がなかった」という面があると思う。「したくてもできなかった」理由は明確で、コロナウイルスによる開発の遅れのせいだろう。ゲームだからリモートでも作れる、というのは所詮イメージに過ぎず、実際のゲーム作りにおいては対面じゃないとできない部分が多い。しかも日本は緊急事態宣言中だ。E3に合わせて開発するようなスケジュールが取れず、どうしても内容が薄くなるのは必然だろう。タイトルだけ発表したはいいものの、開発に多大な時間がかかり、発売延期に陥ったり初期のティザーからは全く別物のゲームになってしまう作品は、「FF15」や「サイバーパンク」の例をみれば十分だろう。大作であればあるほど、できてもいないものを堂々と発表するのは、開発期間が長くなっている傾向がある現在において非常に危険だ。その点では、任天堂ゼルダの映像をよく公開したなと思う。任天堂のプライドのようなものを垣間見た気がする。コロナがなければ、ゼルダ新作ももう少しいろいろと見せられる状態に持って行けたのではないか。

 「そうする必要がなかった」というのは、近年のE3がゲーム発表の場として存在感が薄くなりつつあるという問題と結びつく。任天堂Nintendo Direct、SIEはState of Playという「自社の発表の場」を既に作っており、任天堂はE3というタイトルをつけてはいるものの「ダイレクト」として発表しているし、SIEに至ってはE3に参加していない。さらに、両社ともにプラットフォームホルダーであり、サードのソフトに関してはどちらかのゲーム機、つまりSwitchかPS5で発売される。まだまだ「ゲームは家庭用ゲーム機で遊ぶ」というイメージが強い日本において、日本のソフト会社としては「わざわざE3で情報を小出しするよりもプラットフォームホルダーの発表でドカンとトレーラーを発表するほうが注目が集まる」と考えるのは至極当然の流れだ。結果的にXboxの発表が一番盛り上がったのも、日本の会社のそういった考えの結果ではあるまいか。

 僕の印象では、最近のE3は「ゲームを発表する場」というよりも「業界の交流の場」として機能していた。ロサンゼルスに集まって、ソフトメーカーやメディア、ファンがそれぞれゲームというものについて様々な交流をする、というのがE3の本質であり、新しいゲームを発表してみんなでHYPEするというのは、E3というイベントを考えればむしろ傍流にある気がしていた。「今年のE3は大したことなかった」という感想で溢れているのは、今回のE3がオンライン開催になって、そういうE3の役割の変化が分かりやすい形で表出しただけではないか、というのが率直な感想だ。

 それとは別に、今年のE3はミラー配信が公式で禁止された。

automaton-media.com

E3が発表の場ではなく交流の場であるという近年の動向を考えれば、ミラー配信によってコミュニティーの交流を促すのもまたE3の役目だろう。もちろん権利的な問題が第一にあるので一概にミラー配信を許可しろともいえないが、オンラインイベントであるということも加味すれば、多くの人に見てもらうことはE3にとってメリットにもなりえたんじゃないかなと思う。

 

今E3は、「それが一体何のイベントなのか」という僕が抱いた疑問と同じ問いに、自らが直面している状況ではないか。状況は変化していっているものの、それができた経緯を考えれば、むしろあるべき姿に戻りつつあるような気がする。来年のE3がどのようになるのか想像できないが、とりあえずは今年発表された情報を振り返りながら、まだ見ぬソフトに思いをはせようと思う。

 

 

 

ソニックカラーズのリマスターが楽しみです。

ヒソカのトリック♣

 

f:id:Rex2595:20210416180952p:plain

「僕の予知能力をお見せしようか。…さて、1から13までのカード、まずこの中から好きな数を選んで、頭に思い浮かべて。…いいかな?思い浮かべたらその数に4を足して、さらに倍にする。そこから6を引き、2で割った後、最初に思い浮かべた数を引くといくつになる?…僕にはその答えがあらかじめ分かっている。…その数字は1だ。」

 

 

 

1から13までのカードの選んだ数をxとすると、

 

(2(x+4)ー6)÷2ーx=

 

(2x+2)÷2ーx=


   x+1ーx

 

なので、1~13はもちろん、xにどんな数が入ろうと計算結果は1になる。

古典的な数学トリックで中学生程度であれば基本的には解ける。

 

 

戦闘の真っ最中とはいえこの程度の問題に動揺し「凝」を怠ったカストロは無能。Q.E.D.

私Rexはハンター試験に筆記試験を追加することを強く奨励します。

 

 

 

 

 

最近HUNTER✕HUNTERに滅法ハマってまして。

 

 

 

 

「なろう小説は低俗で害悪である」という神話

 

約半年ぶりのブログ更新です。いつもこのブログを楽しみにしてくださっている皆さん、お待たせしてすみませんでした。誰も待ってませんかそうですか。

 

 

 世はまさになろう戦国時代。小説投稿サイト「小説家になろう」では、日々様々な作家達が腕を振るわせ、何とか自分の書いた小説を世に届けようと試行錯誤を繰り返している。なろう作品はもはやただの「素人の投稿した小説」という域ではなくなってきている。多くの人々の目に触れ、その数が多ければ出版社から声がかかり、書籍化、アニメ化もされ、たちまち人気作家の仲間入りである。最近のアニメ業界は圧倒的原作不足に悩まされており、かつての名作のリメイクをやったり、ちょろっと人気の出たジャンプ作品をすぐにアニメ化して使いつぶしたりと枚挙にいとまがない。常にハイペースでサイクルを回し続けないといけないアニメ業界にとって、これまた非常に速いペースで生産され続けるなろう作品というのはまさに業界を救う打ち出の小槌。なろう作品にはそれ自体にファンがいて、「なろう作品なら見ようかな」なんて人も多いのではなかろうか。玉石混交の中には大ヒットする作品もあり、どちらにせよ非常にアニメ化のメリットが多い。

 しかし、そんななろう作品を嫌悪する方々がいる。最近ではなろう作品を叩く風潮も強く、「なろう作品などけしからん!あれは創作というものを侮辱しておる!」とか、「もうなろう作品にはウンザリだ。あんな低俗なものを見て楽しむのは日々満たされないおっさんか学校でいじめられてるチー牛ぐらいなもんだろ。なろう作品なんて百害あって一利なし、即刻滅びるべきである。」みたいな誹りを非常によく目にする。彼らの言い分を聞いてみると大体その理由は一致する。

 「まず、なろう作品というのはキャラクターの成長がないからいかん。転生した瞬間からチートだのなんだのと能力を与えられ、大した努力もせず無双しているではないか。物語に必要なのは努力、そしてキャラクターの成長である。」

 「第一あの長ったらしいタイトルからして気に入らん。タイトルというのはすっきりと、その作品を象徴するものであるべきだ。タイトルであらすじ説明など嘆かわしい、昔のラノベにはそんなものなかった。」

 「というか世界観や設定が一辺倒すぎる。どいつもこいつも中世風の世界観で右に倣えだ。中世にあんな文明は存在しないし、服や街の時代考証もおかしい。」

 とまあこんな具合である。なろう作品の主人公はほとんどの場合、最初から最強の状態だ。生まれ持ったスキルがあり、周囲がそれをすごいすごいと褒めたたえ、女キャラは主人公を見ただけで発情してしまう。まさに社会において虐げられたものにとっては天国のような場所。イスラエルの民にとってのカナン、さえない人間にとっての「小説家になろう」、まさに約束の地。しかしそれこそなろう作品が低俗とされる所以である。抑圧され肥大した自己の欲望が小説という形で表出し、人生において重要な成長や失敗の物語は棚に上げられ、自分の弱い部分を乗り越えるのではなく、「いや、初めから俺は才能にあふれた人間だから」という物語が露悪的に表現される。これが低俗でなくて何か。非常に鋭い意見だ。

 それに長ったらしいタイトル。なるほど、タイトルとはミニマリズムの美学であるべし、長いタイトルなど芸術性のかけらもない。これはなろう作品に特に多い批判だ、小説においてタイトルは言ってしまえばファーストインプレッションみたいなもの。CDでいうジャケ買いみたいに、小説のタイトル買いというのもあるそうな。確かに秀逸なタイトルであればその本を手に取って読んでみたくなりますな。だからこそ作家と編集者はタイトルにインパクトのある珠玉のことばを選び抜くわけだ。それがなんだなろうは、だらだらとタイトルを長くしやがって、許せん。

 最後に設定の甘さ。たしかになろう作品というのは基本的にテンプレみたいな設定が多い。現代ほど文明が発達していないどこか中世風の世界観。魔法、エルフ、ギルド……、これはどうやらファミコンスーファミ辺りのJRPGを参考にしているっぽい。しかしJRPGはあくまでストーリーを描くための設定、なろう作品の設定は設定のための設定という感じがする。まあこんな世界だからこそ主人公が現代知識で無双できるわけだが。

 

 ここまで見てみると、確かになろう作品というのものが非常に幼稚で低俗で、下衆な代物に思えてくる。こんな害悪作品がエンタメ面してるなど笑止千万、一刻も早く消えるべきだ。こんなものが跋扈しているなど日本が誇るオタク文化の恥、まったく近頃のアニメは……くどくどくどくど。

 さすがにこれ以上書くとあらゆる方面からお𠮟りを受けそうなのでこの辺にしておこう。

 上で述べられている意見を見れば、「うーむ確かに、なろう作品ってのはよくないものなんだなぁ。これからはこんなものじゃなくてもっと高尚な作品を見るべきだなぁ。」なんて思う読者の方もいるのではなかろうか。

 さて、なろう否定論者の皆様方はどうやらなろう作品を「悪」、それ以外の漫画や小説を「良し」とし、その根拠としてここでは「成長や努力のカタルシスの無さ」、「タイトルの冗長さ」、「舞台設定の甘さ」を挙げている。

 しかし考えてみれば、最初から主人公が才能に恵まれている作品というのは、実はなろう以外にもたくさんある。日本を問わず海外でも大人気の漫画作品『NARUTO』、落ちこぼれだった主人公のナルトが仲間とのつながりを通して成長してゆく物語は、熱い少年漫画の王道である。しかしこの作品、読み進めていくにつれて、どうもナルトが努力だけで成り上がった人間とは思えなくなってくる。というのも、物語中においてナルトは明らかに特別な存在として描かれている。ナルトは四代目火影の息子、火影といえば里一番の忍者、ほかのどの忍者よりも優れている。火影は木の葉にて最強であり、そもそもナルトはその出自からして最強の忍者の息子なのであって、そんな彼が火影を志すのは言うなれば東大出身の両親をもつ息子が自分も東大を目指すようなもの。エリート中のエリートなわけである。さらにナルトは自身の中に九尾の化け狐を宿しているというではないか。生まれもさることながらほぼチートと言っていいほどの力まで持ち合わせているとは。どんだけ恵まれてんだお前。これらを考慮すれば「ナルトが火影になれたのは結局血筋と生得的な力のおかげじゃん」と考えてしまうのも無理からぬ話。

 「いや、そういうことじゃねーんだよな。」そう言いたくなる方もいらっしゃるだろう。確かにナルトは生まれながらに持つ素晴らしき才能によって火影になるが、重要なのはそこではなく、その過程にある。そう言いたいのだろう。

 物語においてキャラクターの成長や勝利までの過程というのは非常に重要なものだ。読者が求めるのは勝ち負けの結果ではなく、「どのように勝つか」「勝つことでどう成長するか」といった部分なのではないだろうか。しかしながら、過程や成長というものは本当に作品の良し悪しを決める要素なのだろうか。

 子供たちに超人気のアニメ『アンパンマン』。この作品の中でアンパンマンバイキンマンに幾度となく勝利している。しかし、アンパンマンはこの作品の中で成長しているといえるだろうか?ある日突然、「バイキンマンの悪者としてこの世に生を受けた苦しみ」や、「なんども顔を入れ替えられる自身のアイデンティティ」について思いを巡らすことがあっただろうか。僕はアンパンマンについて詳しくないのでわからないが、おそらくそんなシーンはアンパンマンには存在しないだろう。物語の主人公としての彼の役割はただ一つ、伝家の宝刀アンパンチでバイキンマンをいつものように粉砕し、自身がいかに正義であるかを説くだけ。勧善懲悪のテンプレもいいところだ。これらを考慮すると、物語において「主人公の成長や変化」というのは、作品の方向性を決める重要な一要素ではあるが、別にそれ自体が作品の良し悪しを決めるわけではないと言える。なろう作品とアンパンマンは同レベルであるという話ではない。ハリーポッター然りシンデレラ然り、大した努力や成長もせず英雄になったりお姫様になったりする作品は古今東西巷にあふれている。シャーロックホームズやゴルゴ13だって、最初から最強だ。では何故なろう作品ではこの部分がことさら問題になるのか。

 

 過程に関しても同様だ。今や日本のアニメ映画産業を引っ張る一大作品として名をはせる『名探偵コナン』。老若男女、すべての人が楽しめて、しかもその推理過程も毎度違ってとても面白い。まさになろう作品とは正反対のアニメのように見える。この記事を書いている現在、コナンのテレビアニメの総話数は994話。もうすぐで1,000話の大台に乗りそうだ。そんな長寿アニメのコナン、毎回謎解きや犯人の動機を変えていたと仮定する。一つの事件で平均2話消費しているとすると、単純に考えてその犯行の手口や推理は約500通り必要ということになる。

 

いや、無理だろ。

 

 おそらく数十回は同じアイデアを繰り返している。ときにはほかのミステリー小説からネタをパクったりもしているだろう。犯人の動機もいちいち考えるのは面倒なので、中にはめちゃくちゃしょうもない理由で人を殺すやべーやつもいる。

【少し長スレ】コナンのくそみたいな動機で打線:非常識@なんJ

おそらく、コナンのアニメを全話欠かさず見ている人というのはめちゃくちゃ少ないだろう。ミステリーが好きで、普段から推理小説を好んで読んでいる人も、それほど多くないんじゃなかろうか。もし上で挙げたような人がコナンのアニメを見たらどのような反応をするだろうか。「はいはい、この展開は何週か前の○○話で見ました。」「あーこういうトリックね、もう犯人わかったわ。正直糸とか使うのはもうマンネリだよなあ……」などと思うのではないだろうか。もちろんコナンが事件を通じて成長することなどめったにないし、彼は物語の最初から名探偵であり、『名探偵コナン』とはコナンが名探偵になる物語ではない。そこには『罪と罰』のような、犯罪を通した人間の根源に関する問いかけなどもないし、『コインロッカー・ベイビーズ』のように、当時の世相を反映した社会風刺的要素もない。

 

思うに、なろう作品の”最強設定”も「”そういう”作品に接している機会が多い故になまじつまらなく見えてしまう」という側面を持っているだけに過ぎないのではないか。なろうを見ているのは基本的にオタクなので、主人公がどう勝つか、敵がどういう技を持っているか、巨乳の女騎士がどういう性格か、すべてにおいて先を読みやすい。しかしこれは別になろう特有というわけでもあるまい。

ハリウッド映画は基本的にハッピーエンドで終わるし、ホラー映画にはある程度のセオリーがある。時にはそのようなお決まり事に対して辟易としてしまうこともあるだろうが、そういった決まりごとの上にあるからこそ個々の物語は差別化を狙い結果的に多様性が生まれる。なろう作品というのは一つの作品のことを指しているわけではない。一つ一つの作品が、なろう以外の作品と同様、ある程度基盤のできた構成の上で試行錯誤しているのだ。個々の事例を見れば非常につまらないものもあるだろうが、それを十把一絡げに全部同じだというのは、ジャンプ作品に対して全部「友情・努力・勝利」じゃねえかと批判しているのとそう大差ない。

 

 「それはそうとして、あの長いタイトルはいかんだろ。」と識者諸君はおっしゃるかもしれない。

 先ほどにも述べた通り、作品においてタイトルとは体で例えるなら「顔」、第一印象を決定づける重要な要素である。そんな重要な要素であるにもかかわらず、なろう作品はタイトルを「あらすじ説明のための道具」としか認識していないのではないか。これは由々しき事態である。しかしちょっと考えてほしい。タイトルがひどいという言説は、作品におけるタイトルというものは「それ自体が商業的価値から離れた一種の文芸であるべきだ」という一面的な価値観を基準にして語られている。だがタイトルというのはそういう綺麗な「文芸」的側面だけでなく、その本を宣伝し、より多くの人に読んでもらうための「広告」的側面も存在する。読者の皆さんは、本屋に行って、ふと気になるタイトルを見つけた経験はないだろうか。何も小説に限らない、小難しい学術書の類だって、漫画だっていい。とにかくタイトルをパッと見て「あ、この本ちょっと面白そうかも」などと思った体験は、誰にだって一度はあるはずだろう。人には見せず自己満足で書いているとか、文芸賞などの賞レースに投稿するならまだしも、物語を書いてそれを世に出すというのは、基本的にビジネスありきの世界だ。もちろん本を売るには売れるタイトルをつけなければならない。一目見ただけでその本に興味を持ってもらえるような、その場で立ち読みを始めてしまうような鮮やかで訴求力のあるタイトルでなければならないのだ。作家や編集者が悩み、頭を痛めるのも至極当然。映像や音楽のない、言い換えれば中身がぱっと見で分かりにくい小説という媒体であるからこそ、その一端を垣間見せるタイトルはそもそも広告的側面をもってしかるべきなのだ。そのあたりを理解せずに「タイトルとはもっと綺麗で美しく」などと考えるのはあまりに偏狭な見方だ。

「でもちょっと待てよ、俺は店で本を買うときになろう作品みたいな長ったらしいタイトルを見つけても、1ページだって立ち読みしようとは思わないね。これって広告的に見ても失敗してるんじゃあないか。」

このようなことを言う手合いはそもそもなろう作品がどこにある小説なのかということを失念している。なろう作品はいったいどこにあるのか?それはもちろん「小説家になろう」というウェブサイトの中である。「小説家になろう」に投稿された総作品数は、現在公表されているだけで867,529作品、とんでもない数である。ちなみに2019年の全国の大学図書館(国立私立問わず)の蔵書冊数は合計で328,662,000冊、大学図書館の数は1430館、つまり大体平均で230,000冊の本があるわけだが、「小説家になろう」には換算すると大学図書館約3棟分以上の作品があることになる。本屋の棚を物色するだけならば、作る側も洒落たタイトルを考える余裕がありそうなものだが、こう数が多いとそうも言ってられない。誰一人として読む者もなく、ひっそりとエタる作品など掃いて捨てるほどあるに違いない。どれほど良い作品でも、読んでもらえなければゴミ同然だ。そんな過酷な生存競争、生き残りのサバイバルの中で、ほかの作品よりも自分の作品を選んでもらうにはいったいどのようにすればよいだろうか。この熾烈なバトルロワイヤルを勝ち進んでいくうえで、タイトルにあらすじを書くことには2つの利点がある。まず一つとして、「ほぼあらすじのようなタイトルはどうやっても読む側に作品を印象付けることになる」という点。あらすじのようなタイトルというのは、言ってしまえばタイトルが一つの文章になっているわけである。人間は文章を読むのを途中でやめるということは基本的にしない。「文があればとりあえず句点まで」「登場人物がしゃべりだせばとりあえずそいつがしゃべり終わるまで」という風に、短いながらも区切りをつけて読んでいる。それを踏まえて、例えば『母影(おもかげ)』というタイトルと、『俺は冒険者ギルドの悪徳ギルドマスター~無駄な人材を適材適所に追放してるだけなのに、なぜかめちゃくちゃ感謝されている件「なに?今更ギルドに戻ってきたいだと?まだ早い、君はそこで頑張れるはずだ」』というタイトルが2つ並んでいるとしたら、どちらのタイトルをより長く目で追うだろうか。何度も言うようだが、なろう作品とは弱肉強食の世界、より1秒でも誰かの目に留まるだけで、その作品は「勝ち」なのだ。さらにあらすじを明記しているという点で、その設定を好む読者層にも刺さりやすい。映画やドラマにタイトルだけでなくそのジャンルも示してあることが多いのは、見る側が索引することで探しやすくすることにある。なろうはそれがより細分化した状態だと言える。つまり、流行と衰退を繰り返すなろう界隈において、生物が進化の過程で二足歩行を獲得したように、なろう作品も「あらすじタイトル」を獲得したのだ。それに長いタイトルというのは結構合理的だ。本であれば表紙やキャッチコピーにこだわったりすることで作品をアピールできるが、なろうの世界だとそうもいかない。絵やコピーのつかないなろう世界では「いかに画面の中を自分の作品が占有するか」という部分が勝負になる。長いタイトルなら、もしかしたら誰かがミスクリックして読んでくれるかもしれない。少々こすい手だが、きれいごとばかりでは成り立たないのがこの世界の掟である。ちなみにこれがあらすじタイトルの二つ目の利点である。というか、長いタイトルはどちらかというと読む側の要求によってそうなっている気がする。実際「なろう発」ではない小説や漫画においても長いタイトルが増えてきている事実を鑑みれば、タイトルが長いという傾向は単に需要と供給を満たしているだけなのではないか。

だいいち、長いタイトルなんてなろう以前から普通に存在する。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない!』、『自分以外の全員が犠牲になった難破で岸辺に投げ出され、アメリカの浜辺、オルーノクという大河の河口近くの無人島で28年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に海賊船に助けられたヨーク出身の船乗りロビンソン・クルーソーの生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述(The Life and Strange Surprizing Adventures of Robinson Crusoe, of York, Mariner:Who lived Eight and Twenty Years, all alone in an un‐inhabited Island on the Coast of America, near the Mouth of the Great River of Oroonoque;Having been cast on Shore by Shipwreck, wherein all the Men perished but himself. With An Account how he was at last as strangely deliver’d by Pyrates)』など……タイトルで完結しちゃってんじゃん。

 世界観についても同様だ。そもそも世界観の完成度と作品の良しあしはイコールな関係ではない。いくら世界観にこだわっているからと言ってその作品自体が無条件で面白いわけではないことぐらい、普通に考えればわかる。

所詮舞台は舞台なのだろう。ラノベや漫画の舞台に学校が多いのに、その学校生活の基盤となる授業風景はほとんど描かれないのと同様に、中世風のRPG的世界観においても、そこでの生活の描写に労力を割くことは作品の完成度にはあまり寄与しない。場合によってはストーリーのために舞台を捻じ曲げる必要性も出てくるだろう。学校の屋上シーンなど、現実ではほとんどありえない。そういうありえなさを根拠に作品の良しあしを決めるというのは重箱の隅をつつく行為でしかない。

 

一つ断っておきたいが、別に僕はなろう作品を擁護しようと思ってこんな記事を書いているわけではない。というか、僕自身なろう作品は嫌いだし、見ようとも思わない。しかし僕がなろう作品を個人的に嫌っていることと、なろう作品が実際に程度の低い作品であるかどうかというのは全くの別問題だ。なろう作品が「客観的に見て」低俗で害悪であるという主張をするならば、少なくとも上に記した意見をすべて論駁する必要がある。個人的見解と事実とをごちゃまぜにして語ろうとする姿勢には感心できない。

例えばなろう作品は文章表現や語彙レベルにおいて他の作品に劣るから駄目だという意見があったとする。では、より難しい語彙を用いて情景をありありと描写することが無条件で「是」とされるのかと考えると、確かにそれはある種小説の目指す一つの地点ではあるが、それこそ小説の本質であるとするのは一面的なものの見方でしかない。SF作家である星新一は自らの作品内で意図的に難しい語彙を避けており、情景描写も少なめだ。しかし彼の作品ではそれが見事に読みやすさ、すっきりとした読後感に繋がっている。表現の世界において「これこそが正解だ」と枠を決めてしまうのは、作家たちの自由を奪うことでもあるのではないか。

物事を考える上で大事なことは、常に反対意見を検討することだと思う。これは自分の意見を反対にしろという意味ではない。自分の信念を持ち続けるのは結構、それ自体は素晴らしいことだが、強すぎる信念に目を曇らされるのは考え物だ。自分がいま主張していることは何なのか、それに対する反論は何を述べているか、その意見を踏まえてもなお自分の主張は妥当か。こういうクリティカルな手続きを経てこそたどり着ける見識もあるだろう。なろうの前段階にあたるラノベも、当時の高尚な文芸作家様達から猛烈な批判を浴びた。新しいものが生まれると反対意見は嫌でも出てくるものだ。なにもなろう作品に限った話ではない。Vtuberやソシャゲだってそうだろう。そういった新しいものに対して、いったん自分の思考を外から俯瞰できると、もうちょっと生きやすくなるんじゃなかろうか。

 

 

ところで昔は今でいうところの文芸小説が低俗で害悪とされていたそうですな。時代は変わっても人の本質は変わらないということか。