れっくすのつぶやき

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倫理とリアリズム

news.yahoo.co.jp

このニュースへのコメントで、男性が子供を助けにいったことへの評価が結構分かれていたのが目に留まった。ほとんどの人はこの男性の行動を素晴らしい行動だと賞賛していたが、一方でそのような行動は男性にとって非常に危険であるということが併記されていた。もっと極端なコメントでは「この男性は自身の危険を認識せず首を突っ込むバカだ」とかそういうことが書かれていた。

何かどこかで見たことのあるやり取りだな、と思い記憶を遡っていくと、似たような議論があったのを思い出した。

www.j-cast.com

女性にAEDを使ったらセクハラで訴えられるというデマが拡散され、色々と話題を生んだこのニュースだ。この騒動はデマだったので特に被害者はいなかったものの、そこから派生した議論で結構ラディカルな意見が多かったから驚いた記憶がある。

 

この2つは人命に関わるものだから極端な意見が目立つこともなく忘れ去られていったが、人命に関わらない程度であれば、このような問題は私たちの日常にゴロゴロ転がっている。そして、そういった問題が持つある種の”モヤモヤ感”は自分の中で何も片付かないままずっと見過ごされていたのだった。

「困っている人を助けましょう」とか、「人に優しく生きましょう」とかいう牧歌的な倫理感は現代ではもはや絶滅危惧種だ。学校の授業やスピーチなんかではこの手のフレーズは未だ使われているが、正直言って聴いている側も喋っている側も誰一人として信じちゃいない。

ホームレスに施しをすればたかられるし、女性にAEDを使えば訴えられるし、相手に柔和な態度をすればつけ上がられる。そういう世界で自分たちは生きているんだから、自分の身は自分で守らなくちゃいけない。「女性が困っていても手は貸さない、それはリスクだから」と平然と言ってのける知識人もいる。

この手の性悪論的リアリズムは現代で一種の”賢さ”と見なされている。彼らはお花畑のような倫理、あるいは理想を”馬鹿”の一言で一刀両断して見せ、生き馬の目を抜く強かさを持ったクールな知性が必要だと真剣に主張する。

私はこのリアリズムが間違っているなどとはどうしても思えない。それは、私自身がこの考え方に強烈な説得力を感じているからだ。そして、この考え方が(特に若い世代にとっては)これ以上なく素晴らしいものに映るということも知っているからだ。

しかし一方で、彼らのようなリアリストに対する些かの嫌悪感も私は見過ごさずにはいられない。「結局」とか「実際」とかいう言葉で修飾された”賢さ”に対して、なんとか抵抗しなければならないという強迫観念が常に付きまとっている。また、その強迫観念こそが唾棄すべきものなのかについても、最終的な判断を下せないままずるずると生きている。

私は、この倫理とリアリズムの決して決着のつかない綱引きこそが、私と同年代の(主に20代の)人間全てが抱える病理なのではないかと思っている。

同年代の人間と話していると、ここまで書いた内容と似たようなことを皆吐露する。巷で持て囃されている”成功者”やネット上のリバタリアン達が放つ”賢い”言論に幼いころから浸かりすぎた彼らは、すっかりリアリズムのイデオロギーに染まりきっている。しかし、そのような考えがいつかは自分に対して致命的な傷を与えうるということを皆本能的に感じ取っているのだ。

一方では「人に尽くせ」と言われ、また一方からは「搾取されるな」と言われるこのダブルバインドは、何も私たちの世代に限ったことではないのかもしれない。けれども、最初に挙げたニュースを見る限り、着実に前景化してきているような気がする。

 

そして私も、私の友人も、ただそれをぼんやりと眺めることしか出来ないでいる……。