れっくすのつぶやき

マイペースに色んなことを書いてきます

「バトロワゲー」が流行ったのは若者が競争を嫌ったからというのは本当か?

2018年から2019年あたりのゲーム市場評をふと眺めていたら、こんな文言があった。「最近のバトロワゲーが流行っているのも、若い世代がゲームで争うことに疲れたから、あるいは、ゲームで負けることをとことん忌避しているからだ。」

これは本当だろうか?

特定のゲーム、ゲームジャンルが流行することには必ず何かしらの理由があるはずだ。しかし私はその理由を分析する際に、何でもかんでも若い世代のゲーマーの気質や特性に還元しようとする分析には、非常に懐疑的だ。

僕は若い世代のゲーマーが「競争で負けるのにうんざりしてる」などとは微塵も思わない。

僕の考えでは、バトロワゲームが流行ったのはむしろ「競争性を煽ったから」だと思う。

バトロワゲームの精神的な源流にあるのはサバイバルゲームだ。バトロワゲーを流行らせる起爆剤となったのは『PUBG』だが、僕はその前段階には『DayZ』が置かれるべきだと思う。『DayZ』はオープンワールドのマップで生き残りを目指すサバイバルゲームだが、このゲームでは他のプレイヤーは敵にもなるし味方にもなる。そしてその判断は全てプレイヤーに委ねられている。

MMOにせよ大規模系FPSにせよ、大人数のマルチプレイゲームはめちゃくちゃ面白い。そしてその面白さは、「各人がプレイヤーであるということ」によって保証されている。それぞれ単一の個人が、コンピューターによる制御ではなく意志を持って動くことで、そこには非常に人間的、社会的なダイナミクスが生まれる。そのダイナミクスに飛び込み自身が巻き込まれていく、そしてその一部となる、という感覚こそが、大人数マルチプレイの醍醐味であり本質であると僕は思う。もちろん先ほど述べた『DayZ』もこの大人数マルチプレイの面白さの原則にしっかりと則っている。他のプレイヤーに出会ったとき「撃ち殺すか」「協力者となるか」「協力者になるように見せかけて裏切るか」というのをゲームは強制しない。そこでの判断は全て個々人や集団の「あるがまま」に任せることで、プレイヤーはそうした世界に身を投じること”それ自体”に快感を覚えるのである。

バトロワゲームの革新性というのは、そのダイナミクスに介入し、意図的に修正したことにあるのではないか。

バトロワゲームは他者の扱いを一義的に決定する。他のプレイヤーに出会ったらそこで提示される選択肢は「殺す」か「逃げる」であり、友好的な選択肢は残されていない。そしてマップの範囲は徐々に縮まっていくので、プレイヤーは独自に生きることもできない。ゲームシステムが要求するままに「競い合い」「奪い合う」ことに従わなければならない。バトロワゲームの本質は元ネタとなった映画と同様、まさしく「強制的な殺し合い」にある。

そしてそれが大ブームとなったのである。これがどうして「競争嫌い」という結論になるのだろう。

確かに、それまでの競技性の高いゲームが真剣な競争の世界であったために、バトロワゲームの「順位」の概念が精神的なストレスを少なからず緩和してくれるという考えもできるだろう。しかし、バトロワゲームが「それまで明確であった勝敗の意識を希薄にした」のではなく、「それまで勝敗の概念が希薄だったものに、強制的に勝敗を競わせるシステムを導入した」と考えられない理由もないはずである。そして2018年から2019年にかけてe-sportsの潮流が日本で起こり始めたという事実も含めて考えれば、後者の方が考え方としては妥当なのではないか?と思えるのである。

そしてもし後者の考えの方がより妥当であった場合、そこから導かれる結論は次のようになる。

「最近のバトロワゲーが流行っているのも、若い世代がゲームで争うことを何より欲しているから、あるいは、ゲームでは”勝つこと”を至上の喜びとしているからだ。」

もちろんこれも間違いだろう。だけど最初の分析よりは、「そのゲームシステムがどこから来たものか」や「他のゲーム産業の流れ」を根拠としている分、随分ましなものなのではないかと思うのである。

というようなことを、一人ボーっと考えていた。