れっくすのつぶやき

マイペースに色んなことを書いてきます

趣味と教養について 後編

 

 

 

教養とは何だろうか。

 

 

 

皆さんは教養というものをどういう風にお考えだろうか。

 

最近、やたらと「教養」という言葉が連呼されている気がする。帰り道にふらりと書店に寄ることがあるが、まあ右を見ても左を見ても教養教養と、まるで教養が無い人間には人権が無いかのような脅迫的な広告がズラズラと並んでいる。この前プチブームになった(?)『君たちはどう生きるか』も、別にあれを読んでいないからといって白い目で見られるわけではあるまい。(実際、本の内容もそれほど優れたものでは無いし)

 

僕の考えでは、およそ世間一般の人間にとって、教養というのはそれ自体「知識」とほとんど同義で使われているというような印象を受ける。教養のある人間とはそれすなわち専門的な知識を持っている人間とか、膨大な量の豆知識、ライフハックなどを知っている雑学王を指している。

 

確かに日常会話で使うにはこの程度の認識で良いだろうが、もう少し、教養について考えてもいいんじゃ無いだろうか。

 

実際に、教養があるなと思うような人間に何度か会ったことがある。

 

高校の頃、面白い教師がいた。授業に全く関係のない話をペチャクチャ喋りまくる国語の教師だった。別にクラスの誰も聞いていないのだが、この話の内容が、聞いてみるとかなり面白い。例えば、さっきまで日本の古典の話をしていたはずなのに、なぜか急に宇宙の話に移ったりしている。宇宙空間でどんな現象が起きるのか、宇宙で人間が活動するとどうなるのか、宇宙人はいるか、、、

かと思えば、次は数学の定理の話をしていたり、夏目漱石について延々と魅力を語ったり、時には自分の近所に設置されている自動販売機の規則性について話したりもしていた、そんな人間だった。話の終わりにはいつも「いやあ、面白いですね」と呟いていた。確かに面白かった。そして何よりも印象的だったのは、毎度毎度とても楽しそうに話すことだった。

その教師、残念ながら、僕が卒業する前に辞めてしまった。何が理由かは分からないが、面白い人だったなという感想だけが高校生の自分に残った。

 

そしてそれから大学に進学したわけだが、僕はそのころ若干の中二病を患っていたため、哲学なんかに興味を持っていた。今考えたらだいぶアホだ。

もちろん大学で哲学(哲学史)の講義を取ったわけだが、初回の授業で教授に、「この講義を受けても、皆さんの人生が豊かになったりはしないし、この講義で学んだことが何か人生の一場面で役に立ったりもしない」というようなことを告げられた。

 

よく学生が勉強をしてるときに愚痴る文句の一つに、こんな勉強なんの役に立つんだ、というような言葉が出てくる。確かに、学生時代は半ば強制的に学問を習うわけだから、このような疑問が浮かぶのも当然だろう。しかし悲しいことに、この文句、いい歳こいた大人も言っているのだ。何か新しい自然科学研究が発表されるたびに、マスコミは「で、それがなんの役に立つんですか?」という質問を真っ先に投げかける。

結論から言うと、役には立たない。確かに将来的には何かの役に立つものが多いだろうが、今、その研究が何かに即座に役に立つかと言われるとこれは否定せざるを得ないし、将来的にも何の役にも立たない研究もあるだろう。しかし、だからといってその研究が無価値だと言うわけではない。

 

そもそも学問というものの始まりは、「もっと知りたい」という人間の根源的知的欲求から来ている。何かを見て、どうしてだろうと思ったら、それはもう学問の始まりなのだ。それが人類の歴史の中で少しずつ洗練されてきたに過ぎない。

大学の教授とはそれを極めた人間だ。ある特定の分野、人間の行動様式や自然現象に強烈に心を惹かれて、未知というものに全力で知的好奇心を沸き立たせる、いわば変態である。

だから、面白い。

研究者の、特に自然科学を研究する人間というのは、いつも自分の研究分野について語るとき、目が輝いている気がする。

この変態たちが、何か世の中のために、後世の役に立つために自分たちの研究をしているかというと、勿論NOだろう。どちらかというと娯楽的感覚で、「面白い」からやっている人間が殆どだ。しかし、娯楽に大量の金をかけるほど、この国も潤ってはいない。なので、そういった楽しい楽しい研究を続けさせてもらう建前として、将来的に役に立つとか、何かに有用であるとかの大義名分が必要なのだ。

 

故に、大学生にもなって「勉強なんてなんの役に立つんだ」などと言っているような人間は、そもそも大学には向いていない。何か「役に立つ」ことを学びたいのなら、ビジネススクールや専門学校にでも行けばいい。そっちの方がお似合いだ。

高校までに習う学問というのは、大学で学ぶことのできる学問のほんの上澄みを掠め取った程度の内容で出来ている。さらに、日本の教師の質もあまり良いとは言えないので、中高生はこの「学問の面白さ」に気づく機会があまりないような気がする。

しかし、大学生になった途端、その視界は急激に広がる。あらゆる分野の専門家が、90分間自分の好きなことについてものすごい勢いで喋り倒す。これがつまらない訳がない(もちろん、しゃべりがつまらない教授もいるにはいるが)。

 

さて、話を教養に戻そう。結局、教養とは何なのか?これについて、僕はこう断言することにしよう。

 

 

 

 

 

教養とは、すでに持っている知識の総体ではなく、まだ知らない知識に対しての態度のことである。

 

 

 

 

 

日本のほとんどの大学は入学したばかりの新入生に「教養分野」と呼ばれるいくつかの講義を受けさせている。この教養分野の意義、僕の解釈からすれば、これは幅広い知識を学生に持たせる、というよりも、幅広い知識の諸グループに対して学生に興味を持ってもらう、という事の方に向いていると思う。

そして、僕の今まで見てきた教養のある人間とは皆、この「知らないことに対して興味を失わない」人間だったと思う。

そしてこれは何も大学に限った話ではない。もっと日常的な部分に直結している。身近な自然現象、近所に設置された自動販売機の規則性、自分の好きなアニメ、ゲーム、、、。生活の中で、あらゆる疑問に対して面白いと思える心、興味のあることに全力で取り組んでいける姿勢、これを教養と呼ぶんじゃなかろうか。

 

僕の中で、教養という言葉は知的好奇心という言葉で言い換えられる。教養のある人間とは、知的好奇心を失わない人間のことだ。僕たちの身の回りに、面白いものは充ち満ちている。

 

これは前回の趣味の話とも繋がる。前回、内面的な娯楽について書いたが、これは教養のある人間にしか享受できない。教養のある人間にとっては、海外に旅行に行ったりすることよりも、宇宙について語り合ったりする方が何倍も面白いのだ。

 

現在文部科学省の掲げる新学習指導要領の中に、「生きる力」というものがある。その説明の一つには、人間が主体的に学ぶ意欲を発揮し、知識へと積極的に関わっていくことの重要性が述べられている。

今、日本に住む大人のどれほどが、この「生きる力」を身につけているだろうか。学問の本質的な部分は、知識ではなく、知的好奇心の方にあるのではないだろうか。

 

僕が卒業する前に学校を去ったあの教師、今は何をしているだろうか。その知的好奇心を生かして、何かの研究者になったりしていれば面白いなと考えている。

またいつか会えるかな。

 

さきほど紹介した哲学の教授、実はあの発言には続きがある。それを紹介して、この駄文を終わろうと思う。僕の記憶の中でかなり改竄されていることは断っておきたい。

 

 

 

「この講義を受けても、皆さんの人生が豊かになったりはしないし、この講義で学んだことが何か人生の一場面で役に立ったりもしないだろう。しかし、皆さんの人生を少しだけ面白くすることなら出来るかもしれない。退屈というのは、いつも教養のない人間の口から語られる。哲学を学べば、ここから一歩も動かずとも、退屈ではなくなります。」