れっくすのつぶやき

マイペースに色んなことを書いてきます

「なろう小説は低俗で害悪である」という神話

 

約半年ぶりのブログ更新です。いつもこのブログを楽しみにしてくださっている皆さん、お待たせしてすみませんでした。誰も待ってませんかそうですか。

 

 

 世はまさになろう戦国時代。小説投稿サイト「小説家になろう」では、日々様々な作家達が腕を振るわせ、何とか自分の書いた小説を世に届けようと試行錯誤を繰り返している。なろう作品はもはやただの「素人の投稿した小説」という域ではなくなってきている。多くの人々の目に触れ、その数が多ければ出版社から声がかかり、書籍化、アニメ化もされ、たちまち人気作家の仲間入りである。最近のアニメ業界は圧倒的原作不足に悩まされており、かつての名作のリメイクをやったり、ちょろっと人気の出たジャンプ作品をすぐにアニメ化して使いつぶしたりと枚挙にいとまがない。常にハイペースでサイクルを回し続けないといけないアニメ業界にとって、これまた非常に速いペースで生産され続けるなろう作品というのはまさに業界を救う打ち出の小槌。なろう作品にはそれ自体にファンがいて、「なろう作品なら見ようかな」なんて人も多いのではなかろうか。玉石混交の中には大ヒットする作品もあり、どちらにせよ非常にアニメ化のメリットが多い。

 しかし、そんななろう作品を嫌悪する方々がいる。最近ではなろう作品を叩く風潮も強く、「なろう作品などけしからん!あれは創作というものを侮辱しておる!」とか、「もうなろう作品にはウンザリだ。あんな低俗なものを見て楽しむのは日々満たされないおっさんか学校でいじめられてるチー牛ぐらいなもんだろ。なろう作品なんて百害あって一利なし、即刻滅びるべきである。」みたいな誹りを非常によく目にする。彼らの言い分を聞いてみると大体その理由は一致する。

 「まず、なろう作品というのはキャラクターの成長がないからいかん。転生した瞬間からチートだのなんだのと能力を与えられ、大した努力もせず無双しているではないか。物語に必要なのは努力、そしてキャラクターの成長である。」

 「第一あの長ったらしいタイトルからして気に入らん。タイトルというのはすっきりと、その作品を象徴するものであるべきだ。タイトルであらすじ説明など嘆かわしい、昔のラノベにはそんなものなかった。」

 「というか世界観や設定が一辺倒すぎる。どいつもこいつも中世風の世界観で右に倣えだ。中世にあんな文明は存在しないし、服や街の時代考証もおかしい。」

 とまあこんな具合である。なろう作品の主人公はほとんどの場合、最初から最強の状態だ。生まれ持ったスキルがあり、周囲がそれをすごいすごいと褒めたたえ、女キャラは主人公を見ただけで発情してしまう。まさに社会において虐げられたものにとっては天国のような場所。イスラエルの民にとってのカナン、さえない人間にとっての「小説家になろう」、まさに約束の地。しかしそれこそなろう作品が低俗とされる所以である。抑圧され肥大した自己の欲望が小説という形で表出し、人生において重要な成長や失敗の物語は棚に上げられ、自分の弱い部分を乗り越えるのではなく、「いや、初めから俺は才能にあふれた人間だから」という物語が露悪的に表現される。これが低俗でなくて何か。非常に鋭い意見だ。

 それに長ったらしいタイトル。なるほど、タイトルとはミニマリズムの美学であるべし、長いタイトルなど芸術性のかけらもない。これはなろう作品に特に多い批判だ、小説においてタイトルは言ってしまえばファーストインプレッションみたいなもの。CDでいうジャケ買いみたいに、小説のタイトル買いというのもあるそうな。確かに秀逸なタイトルであればその本を手に取って読んでみたくなりますな。だからこそ作家と編集者はタイトルにインパクトのある珠玉のことばを選び抜くわけだ。それがなんだなろうは、だらだらとタイトルを長くしやがって、許せん。

 最後に設定の甘さ。たしかになろう作品というのは基本的にテンプレみたいな設定が多い。現代ほど文明が発達していないどこか中世風の世界観。魔法、エルフ、ギルド……、これはどうやらファミコンスーファミ辺りのJRPGを参考にしているっぽい。しかしJRPGはあくまでストーリーを描くための設定、なろう作品の設定は設定のための設定という感じがする。まあこんな世界だからこそ主人公が現代知識で無双できるわけだが。

 

 ここまで見てみると、確かになろう作品というのものが非常に幼稚で低俗で、下衆な代物に思えてくる。こんな害悪作品がエンタメ面してるなど笑止千万、一刻も早く消えるべきだ。こんなものが跋扈しているなど日本が誇るオタク文化の恥、まったく近頃のアニメは……くどくどくどくど。

 さすがにこれ以上書くとあらゆる方面からお𠮟りを受けそうなのでこの辺にしておこう。

 上で述べられている意見を見れば、「うーむ確かに、なろう作品ってのはよくないものなんだなぁ。これからはこんなものじゃなくてもっと高尚な作品を見るべきだなぁ。」なんて思う読者の方もいるのではなかろうか。

 さて、なろう否定論者の皆様方はどうやらなろう作品を「悪」、それ以外の漫画や小説を「良し」とし、その根拠としてここでは「成長や努力のカタルシスの無さ」、「タイトルの冗長さ」、「舞台設定の甘さ」を挙げている。

 しかし考えてみれば、最初から主人公が才能に恵まれている作品というのは、実はなろう以外にもたくさんある。日本を問わず海外でも大人気の漫画作品『NARUTO』、落ちこぼれだった主人公のナルトが仲間とのつながりを通して成長してゆく物語は、熱い少年漫画の王道である。しかしこの作品、読み進めていくにつれて、どうもナルトが努力だけで成り上がった人間とは思えなくなってくる。というのも、物語中においてナルトは明らかに特別な存在として描かれている。ナルトは四代目火影の息子、火影といえば里一番の忍者、ほかのどの忍者よりも優れている。火影は木の葉にて最強であり、そもそもナルトはその出自からして最強の忍者の息子なのであって、そんな彼が火影を志すのは言うなれば東大出身の両親をもつ息子が自分も東大を目指すようなもの。エリート中のエリートなわけである。さらにナルトは自身の中に九尾の化け狐を宿しているというではないか。生まれもさることながらほぼチートと言っていいほどの力まで持ち合わせているとは。どんだけ恵まれてんだお前。これらを考慮すれば「ナルトが火影になれたのは結局血筋と生得的な力のおかげじゃん」と考えてしまうのも無理からぬ話。

 「いや、そういうことじゃねーんだよな。」そう言いたくなる方もいらっしゃるだろう。確かにナルトは生まれながらに持つ素晴らしき才能によって火影になるが、重要なのはそこではなく、その過程にある。そう言いたいのだろう。

 物語においてキャラクターの成長や勝利までの過程というのは非常に重要なものだ。読者が求めるのは勝ち負けの結果ではなく、「どのように勝つか」「勝つことでどう成長するか」といった部分なのではないだろうか。しかしながら、過程や成長というものは本当に作品の良し悪しを決める要素なのだろうか。

 子供たちに超人気のアニメ『アンパンマン』。この作品の中でアンパンマンバイキンマンに幾度となく勝利している。しかし、アンパンマンはこの作品の中で成長しているといえるだろうか?ある日突然、「バイキンマンの悪者としてこの世に生を受けた苦しみ」や、「なんども顔を入れ替えられる自身のアイデンティティ」について思いを巡らすことがあっただろうか。僕はアンパンマンについて詳しくないのでわからないが、おそらくそんなシーンはアンパンマンには存在しないだろう。物語の主人公としての彼の役割はただ一つ、伝家の宝刀アンパンチでバイキンマンをいつものように粉砕し、自身がいかに正義であるかを説くだけ。勧善懲悪のテンプレもいいところだ。これらを考慮すると、物語において「主人公の成長や変化」というのは、作品の方向性を決める重要な一要素ではあるが、別にそれ自体が作品の良し悪しを決めるわけではないと言える。なろう作品とアンパンマンは同レベルであるという話ではない。ハリーポッター然りシンデレラ然り、大した努力や成長もせず英雄になったりお姫様になったりする作品は古今東西巷にあふれている。シャーロックホームズやゴルゴ13だって、最初から最強だ。では何故なろう作品ではこの部分がことさら問題になるのか。

 

 過程に関しても同様だ。今や日本のアニメ映画産業を引っ張る一大作品として名をはせる『名探偵コナン』。老若男女、すべての人が楽しめて、しかもその推理過程も毎度違ってとても面白い。まさになろう作品とは正反対のアニメのように見える。この記事を書いている現在、コナンのテレビアニメの総話数は994話。もうすぐで1,000話の大台に乗りそうだ。そんな長寿アニメのコナン、毎回謎解きや犯人の動機を変えていたと仮定する。一つの事件で平均2話消費しているとすると、単純に考えてその犯行の手口や推理は約500通り必要ということになる。

 

いや、無理だろ。

 

 おそらく数十回は同じアイデアを繰り返している。ときにはほかのミステリー小説からネタをパクったりもしているだろう。犯人の動機もいちいち考えるのは面倒なので、中にはめちゃくちゃしょうもない理由で人を殺すやべーやつもいる。

【少し長スレ】コナンのくそみたいな動機で打線:非常識@なんJ

おそらく、コナンのアニメを全話欠かさず見ている人というのはめちゃくちゃ少ないだろう。ミステリーが好きで、普段から推理小説を好んで読んでいる人も、それほど多くないんじゃなかろうか。もし上で挙げたような人がコナンのアニメを見たらどのような反応をするだろうか。「はいはい、この展開は何週か前の○○話で見ました。」「あーこういうトリックね、もう犯人わかったわ。正直糸とか使うのはもうマンネリだよなあ……」などと思うのではないだろうか。もちろんコナンが事件を通じて成長することなどめったにないし、彼は物語の最初から名探偵であり、『名探偵コナン』とはコナンが名探偵になる物語ではない。そこには『罪と罰』のような、犯罪を通した人間の根源に関する問いかけなどもないし、『コインロッカー・ベイビーズ』のように、当時の世相を反映した社会風刺的要素もない。

 

思うに、なろう作品の”最強設定”も「”そういう”作品に接している機会が多い故になまじつまらなく見えてしまう」という側面を持っているだけに過ぎないのではないか。なろうを見ているのは基本的にオタクなので、主人公がどう勝つか、敵がどういう技を持っているか、巨乳の女騎士がどういう性格か、すべてにおいて先を読みやすい。しかしこれは別になろう特有というわけでもあるまい。

ハリウッド映画は基本的にハッピーエンドで終わるし、ホラー映画にはある程度のセオリーがある。時にはそのようなお決まり事に対して辟易としてしまうこともあるだろうが、そういった決まりごとの上にあるからこそ個々の物語は差別化を狙い結果的に多様性が生まれる。なろう作品というのは一つの作品のことを指しているわけではない。一つ一つの作品が、なろう以外の作品と同様、ある程度基盤のできた構成の上で試行錯誤しているのだ。個々の事例を見れば非常につまらないものもあるだろうが、それを十把一絡げに全部同じだというのは、ジャンプ作品に対して全部「友情・努力・勝利」じゃねえかと批判しているのとそう大差ない。

 

 「それはそうとして、あの長いタイトルはいかんだろ。」と識者諸君はおっしゃるかもしれない。

 先ほどにも述べた通り、作品においてタイトルとは体で例えるなら「顔」、第一印象を決定づける重要な要素である。そんな重要な要素であるにもかかわらず、なろう作品はタイトルを「あらすじ説明のための道具」としか認識していないのではないか。これは由々しき事態である。しかしちょっと考えてほしい。タイトルがひどいという言説は、作品におけるタイトルというものは「それ自体が商業的価値から離れた一種の文芸であるべきだ」という一面的な価値観を基準にして語られている。だがタイトルというのはそういう綺麗な「文芸」的側面だけでなく、その本を宣伝し、より多くの人に読んでもらうための「広告」的側面も存在する。読者の皆さんは、本屋に行って、ふと気になるタイトルを見つけた経験はないだろうか。何も小説に限らない、小難しい学術書の類だって、漫画だっていい。とにかくタイトルをパッと見て「あ、この本ちょっと面白そうかも」などと思った体験は、誰にだって一度はあるはずだろう。人には見せず自己満足で書いているとか、文芸賞などの賞レースに投稿するならまだしも、物語を書いてそれを世に出すというのは、基本的にビジネスありきの世界だ。もちろん本を売るには売れるタイトルをつけなければならない。一目見ただけでその本に興味を持ってもらえるような、その場で立ち読みを始めてしまうような鮮やかで訴求力のあるタイトルでなければならないのだ。作家や編集者が悩み、頭を痛めるのも至極当然。映像や音楽のない、言い換えれば中身がぱっと見で分かりにくい小説という媒体であるからこそ、その一端を垣間見せるタイトルはそもそも広告的側面をもってしかるべきなのだ。そのあたりを理解せずに「タイトルとはもっと綺麗で美しく」などと考えるのはあまりに偏狭な見方だ。

「でもちょっと待てよ、俺は店で本を買うときになろう作品みたいな長ったらしいタイトルを見つけても、1ページだって立ち読みしようとは思わないね。これって広告的に見ても失敗してるんじゃあないか。」

このようなことを言う手合いはそもそもなろう作品がどこにある小説なのかということを失念している。なろう作品はいったいどこにあるのか?それはもちろん「小説家になろう」というウェブサイトの中である。「小説家になろう」に投稿された総作品数は、現在公表されているだけで867,529作品、とんでもない数である。ちなみに2019年の全国の大学図書館(国立私立問わず)の蔵書冊数は合計で328,662,000冊、大学図書館の数は1430館、つまり大体平均で230,000冊の本があるわけだが、「小説家になろう」には換算すると大学図書館約3棟分以上の作品があることになる。本屋の棚を物色するだけならば、作る側も洒落たタイトルを考える余裕がありそうなものだが、こう数が多いとそうも言ってられない。誰一人として読む者もなく、ひっそりとエタる作品など掃いて捨てるほどあるに違いない。どれほど良い作品でも、読んでもらえなければゴミ同然だ。そんな過酷な生存競争、生き残りのサバイバルの中で、ほかの作品よりも自分の作品を選んでもらうにはいったいどのようにすればよいだろうか。この熾烈なバトルロワイヤルを勝ち進んでいくうえで、タイトルにあらすじを書くことには2つの利点がある。まず一つとして、「ほぼあらすじのようなタイトルはどうやっても読む側に作品を印象付けることになる」という点。あらすじのようなタイトルというのは、言ってしまえばタイトルが一つの文章になっているわけである。人間は文章を読むのを途中でやめるということは基本的にしない。「文があればとりあえず句点まで」「登場人物がしゃべりだせばとりあえずそいつがしゃべり終わるまで」という風に、短いながらも区切りをつけて読んでいる。それを踏まえて、例えば『母影(おもかげ)』というタイトルと、『俺は冒険者ギルドの悪徳ギルドマスター~無駄な人材を適材適所に追放してるだけなのに、なぜかめちゃくちゃ感謝されている件「なに?今更ギルドに戻ってきたいだと?まだ早い、君はそこで頑張れるはずだ」』というタイトルが2つ並んでいるとしたら、どちらのタイトルをより長く目で追うだろうか。何度も言うようだが、なろう作品とは弱肉強食の世界、より1秒でも誰かの目に留まるだけで、その作品は「勝ち」なのだ。さらにあらすじを明記しているという点で、その設定を好む読者層にも刺さりやすい。映画やドラマにタイトルだけでなくそのジャンルも示してあることが多いのは、見る側が索引することで探しやすくすることにある。なろうはそれがより細分化した状態だと言える。つまり、流行と衰退を繰り返すなろう界隈において、生物が進化の過程で二足歩行を獲得したように、なろう作品も「あらすじタイトル」を獲得したのだ。それに長いタイトルというのは結構合理的だ。本であれば表紙やキャッチコピーにこだわったりすることで作品をアピールできるが、なろうの世界だとそうもいかない。絵やコピーのつかないなろう世界では「いかに画面の中を自分の作品が占有するか」という部分が勝負になる。長いタイトルなら、もしかしたら誰かがミスクリックして読んでくれるかもしれない。少々こすい手だが、きれいごとばかりでは成り立たないのがこの世界の掟である。ちなみにこれがあらすじタイトルの二つ目の利点である。というか、長いタイトルはどちらかというと読む側の要求によってそうなっている気がする。実際「なろう発」ではない小説や漫画においても長いタイトルが増えてきている事実を鑑みれば、タイトルが長いという傾向は単に需要と供給を満たしているだけなのではないか。

だいいち、長いタイトルなんてなろう以前から普通に存在する。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない!』、『自分以外の全員が犠牲になった難破で岸辺に投げ出され、アメリカの浜辺、オルーノクという大河の河口近くの無人島で28年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に海賊船に助けられたヨーク出身の船乗りロビンソン・クルーソーの生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述(The Life and Strange Surprizing Adventures of Robinson Crusoe, of York, Mariner:Who lived Eight and Twenty Years, all alone in an un‐inhabited Island on the Coast of America, near the Mouth of the Great River of Oroonoque;Having been cast on Shore by Shipwreck, wherein all the Men perished but himself. With An Account how he was at last as strangely deliver’d by Pyrates)』など……タイトルで完結しちゃってんじゃん。

 世界観についても同様だ。そもそも世界観の完成度と作品の良しあしはイコールな関係ではない。いくら世界観にこだわっているからと言ってその作品自体が無条件で面白いわけではないことぐらい、普通に考えればわかる。

所詮舞台は舞台なのだろう。ラノベや漫画の舞台に学校が多いのに、その学校生活の基盤となる授業風景はほとんど描かれないのと同様に、中世風のRPG的世界観においても、そこでの生活の描写に労力を割くことは作品の完成度にはあまり寄与しない。場合によってはストーリーのために舞台を捻じ曲げる必要性も出てくるだろう。学校の屋上シーンなど、現実ではほとんどありえない。そういうありえなさを根拠に作品の良しあしを決めるというのは重箱の隅をつつく行為でしかない。

 

一つ断っておきたいが、別に僕はなろう作品を擁護しようと思ってこんな記事を書いているわけではない。というか、僕自身なろう作品は嫌いだし、見ようとも思わない。しかし僕がなろう作品を個人的に嫌っていることと、なろう作品が実際に程度の低い作品であるかどうかというのは全くの別問題だ。なろう作品が「客観的に見て」低俗で害悪であるという主張をするならば、少なくとも上に記した意見をすべて論駁する必要がある。個人的見解と事実とをごちゃまぜにして語ろうとする姿勢には感心できない。

例えばなろう作品は文章表現や語彙レベルにおいて他の作品に劣るから駄目だという意見があったとする。では、より難しい語彙を用いて情景をありありと描写することが無条件で「是」とされるのかと考えると、確かにそれはある種小説の目指す一つの地点ではあるが、それこそ小説の本質であるとするのは一面的なものの見方でしかない。SF作家である星新一は自らの作品内で意図的に難しい語彙を避けており、情景描写も少なめだ。しかし彼の作品ではそれが見事に読みやすさ、すっきりとした読後感に繋がっている。表現の世界において「これこそが正解だ」と枠を決めてしまうのは、作家たちの自由を奪うことでもあるのではないか。

物事を考える上で大事なことは、常に反対意見を検討することだと思う。これは自分の意見を反対にしろという意味ではない。自分の信念を持ち続けるのは結構、それ自体は素晴らしいことだが、強すぎる信念に目を曇らされるのは考え物だ。自分がいま主張していることは何なのか、それに対する反論は何を述べているか、その意見を踏まえてもなお自分の主張は妥当か。こういうクリティカルな手続きを経てこそたどり着ける見識もあるだろう。なろうの前段階にあたるラノベも、当時の高尚な文芸作家様達から猛烈な批判を浴びた。新しいものが生まれると反対意見は嫌でも出てくるものだ。なにもなろう作品に限った話ではない。Vtuberやソシャゲだってそうだろう。そういった新しいものに対して、いったん自分の思考を外から俯瞰できると、もうちょっと生きやすくなるんじゃなかろうか。

 

 

ところで昔は今でいうところの文芸小説が低俗で害悪とされていたそうですな。時代は変わっても人の本質は変わらないということか。