れっくすのつぶやき

マイペースに色んなことを書いてきます

学問に触れるということ

久々に面白い記事を見つけたので。

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精神障害自閉症に苦しむ人たちにとっての希望」と名高いrei氏と呼ばれるツイッタラhttps://twitter.com/rei10830349に対して、医学部の学生がアカデミックな観点からツイートに突っ込んでいくという記事。自身のツイートに多数の論文を引用していながら、実はその論文を本人は読んでいないのではないかということを徹底的に追究している。匿名で、しかも学生でありながらしっかりとした医学的検証と皮肉たっぷりのフランクな文体によって、読んでて非常に面白く痛快である。

とまあ、そんな感じの記事なのだが本当に重要なのは本文ではなく最後の締めくくりの文だろう。

そりゃインターネット論客みたいな、能力が及ばなくてアカデミアにも進めずかといって地域根付くこともできなかったしょっぺえしょっぺえ小物を相手にするのは常識を備えたまともな大人がやることじゃないかもしれないけどさ、時代は少しずつしかし確実に変わりつつあって、インターネットに居場所を持つ人はどんどん増えてきてるわけ。そういう状況下で、いい加減なことを無責任に言い散らかすような存在無視しちゃいけなくなってきてるんだよ。自分医者として働いてて、患者が「僕チー牛顔なんで〜、モテないんすよね〜、やっぱ先進国の女はチー牛顔を求めてないし〜」なんて言ってきた場合、どっから説明したらいいか頭抱えちゃうでしょ?増田キレすぎワロタとか草生やしたり冷笑する暇あったらその廃用症の脳細胞に鞭打ってちょっとくらいは想像してくださいよ。こんだけ俺のパーソナリティを開示してるんだからさ。今のうちに意味不明な言説の芽は叩き潰す。そういう感じのモチベーションで書きました。ここまで言えばわかってくれますか?今のインターネットの、目も当てられないくらいの、情報汚染リテラシーの欠如、質の悪いコンテンツの氾濫、尊き価値創造営為へのリスペクトを失った盲目消費者絶望ですよ、絶望

現代のインターネットの情報汚染や疑似科学などの氾濫に対して警鐘を鳴らしており、数万人ものフォロワーを抱えながら適当な言説をまき散らす一部のツイッタラーに対しての憂いや絶望がつらつらと書き連ねられている。しかし、このような意味不明な論客がいるということは、それを消費する人間がいるということでもある。

結論からすれば、ツイッタラーもそれを消費する側も、まあまともに学問というものに触れたことが無いのだろう。

 

高校までの義務教育と、大学での高等教育というのは学問に対する考え方がまるっきり異なる。

小中高までの学問の目的とは、問題を解くということに絞られる。与えられた問題に、それまで習った知識を当てはめていき、答えを導き出す。しかしここでの問題と答えは、言うなればQuizとAnswerの関係でしかない。問題には全て答えが存在しており、その答えも教師が教えてくれる。ゆえに、義務教育での勉強というのはひたすらに答えを求めるものだ。しかし、大学となってくるとそうはいかない。

大学では答えよりも問題を発見することに焦点が置かれる。というよりも、学問において、問いを発見することと問いに答えを出すことでは、圧倒的に前者の方が”偉い”。フェルマーの最終定理の「フェルマー」も、問いを発見した人物だ。問いに答えを与えたのはフェルマーではなくアンドリュー・ワイルズという人物であって、フェルマーではない。そもそも問いが無ければ答など出ようもない。

さらに、大学で学ぶ学問は、ほとんどの場合、答えというものが本質的には存在しない問題が多い。ここでの問題とはQuizではなくProblemやIssueの方だ。誰かが答えを教えてくれてそれを暗記するのではなく、自身の持つ知識体系をフル活用して自分なりの答えを論理的に導いてゆく。そういうものが大学で学ぶ学問だ。高校までであれば暗記力さえあれば先生に褒められただろうが、高等教育において知識を覚えることなどは大前提、できて当たり前のことであり、そこからどう問いを発見するかの方がむしろ重要だ。小中高で優等生とされていた生徒というのは、ほとんどがここで躓く。それまで真面目に机の前でじっと暗記をしてきたはずが、突然答えのない知の大海へと放り込まれる。じっと黙って先生の話を聞くだけでは通用しなくなってくるのだ。

別に大学に行っていない人間がバカであると言っている訳ではない。こういうことは大学に入ってから教わるものではなく、しっかりと高校生の時に気づくべきだ。大学に入ってからこんなことを教わるようでは遅すぎる、こんなことに気づいていない人間が大学に入っても何の意味もない。貴重な4年間をどぶに捨てるだけだ。

 

要するに、こういう人間は、答えが無いということを極端に恐れているに過ぎない。そのうえこのような人間は本質的に勉強嫌いである。自身の持っている知識の枠組みの中に閉じこもり、外の世界に興味を示すのではなく、自分の知っている世界の中でしか生きられない。ゆえに、学問の楽しさを1ミリも味わうことなく、勉強とはすべて暗記であるなどと平気で思い込んでいる。そりゃあそんな勉強が楽しいはずがない。哲学の試験で教授に答えをきいちゃうような愚かな人間だ。

そして皮肉なことに、学問に対してそういった不誠実な態度をとる人間ほど、プライドが高く無知という言葉に最も敏感に反応してしまう。学歴で人を測り、東大やハーバード、大学教授といった肩書や権威にこれでもかとすがり、ただのクイズが得意な大学生を「神の頭脳」「天才」などと言ってもてはやす。

そして行き着く先は、何の素性も知れないツイッタラーの適当な言説を、ただ横に無関係な論文が貼ってあるだけでそれが真理だと簡単に信じ込んでしまう。そういう人間になってしまう。そうなってしまってはもはや手遅れ、答えの真実性などどうでもよく、ただ自分を安心させてくれる答えを妄信するだけだ。恐ろしいことこの上ない。

残念ながら、インターネットにはそのような人間が老若男女大勢いる。否定したくもなるが、先に挙げたアカウントのフォロワー数やリツイート数がその証左他ならない。こういうツイートをリツイートするのは自分がバカだと言ってしまっているようなものだ。

では一体どうすればいいのだろうか。

やはり、最終的には自分自身が学問に、それがほんの一端であっても、触れてみるしかないと思う。しかし学問に触れるというのは、何も難しそうな活字の本を訝しげな表情で読むことではない。そんなことをして知識を持った気になっても、どうせ1か月程度で忘れてしまうのが関の山だ。

 

 

真の意味で学問に触れるというのは、自身の中にばらばらに存在する諸知識を体系化し、その知識によって身の回りから問いを発見し、仮説を立て、検証するという一連の流れを経験することだ。

そしてそれに必要なのは分厚い本などではなく、何よりも、今持っている知識だけに固執せず、答えのない未知の領域へと恐れずに踏み出してゆく姿勢ではなかろうか。学問においては、無知は罪ではない。

 

 

 

よく勘違いしている人が多いが、別に知識が無かったり、頭の回転が悪かったり教養がないからと言って、その人が人間的に劣っているということは何一つない。しかしインターネットを見渡せば、どこか「教養のない人間は無価値だ」というような空気が充満しているように見えてならない。そういった空気が、このような歪んだアカデミズムを生む一因となっている気がする。

コロナによって様々な言説が流れる中で、上の記事はそういったことを考えるいいきっかけだったと思う。

 

 

 

 

要するに勉強しろということです。