れっくすのつぶやき

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倫理的議論において陥りがちな二つの誤謬

倫理的議論について

 

人間、生きていればいつかは倫理的な問題についての議論に巻き込まれることがあるだろう。実際、SNSではほぼ毎日のように倫理についての議論がなされている。

しかし、その全てが正しく議論を成功させているとは言い難い。もちろん世間話のような姿勢で臨む議論というのは概して成功しないが、一見大真面目な顔をして議論をしているように見えても、まともな意見をしている人というのは案外少ない。そこで今回は、なぜ倫理的議論が正しく行われないかについて、二つの大きな誤謬を指摘してみようと思う。いくら専門的な倫理学を学んでいないとしても、次にあげる二つの”間違い”は、倫理において非常に大事な考え方なので、参考にしてもらいたい。

 

倫理的議論における誤謬その1

「極端な科学主義」

極端な科学主義はときに倫理議論を破綻させる。さて、ここでは次の二つの主張について、その主張が倫理的に妥当であるかどうかについて考えてみよう。

 

主張1

「最近の遺伝子研究によって、ある特定の遺伝子を持つグループは他のグループに比べて遺伝子的に劣等であるという説がある。ゆえに、これらのグループは人類の将来の為に速やかに排除されるべきである。」

 

主張2

「今日の研究では、男女の性別における学歴やIQの差について、その要因は脳の構造などによる先天的なものではなく、むしろ生まれた後の社会の教育環境のほうにあるということが証明されている。よって、男性も女性も学歴やIQの差によって差別されるべきではない。」

 

 

上の二つの主張において、どちらの主張が妥当で、どちらの主張が妥当ではないだろう。あなた自身で一度考えてみて欲しい。

 

 

 

 

 

答えは

どちらも妥当ではない。

 

実はこの二つは一見正反対のことを言っているように見えてどちらも同じような考え(前提)を持っている。

まず主張1、これは典型的な差別主義者の主張。遺伝子的に劣等である人間がいたとして、そのような人間はすぐさま排除されるべきだという主張は倫理的議論において真っ先に否定される。ナチス・ドイツの優性学をはじめとした人類の負の歴史をそのままの形で主張にすると大体こんな感じになる。

次に主張2。実は、これも差別主義的な考えである。「え?どこが?むしろ差別反対してるじゃん!」という意見がありそうだが、問題はその主張の内容ではなく、主張の論理的帰結の仕方にある。

今回の二つの主張では、どちらも帰結を導く文が入っている(ゆえに、よって、など)。

これはAだからB、BだからCのように、理由と結論を結び付ける役割がある。

この主張2の言いたいことは要するに「男女の知能の差は後天的”だから”差別してはいけない」ということである。確かに、今現在の科学では、男女の知能差が先天的なものであるという決定的なエビデンスは無いだろう。主張1のような劣等的な遺伝子というのも存在しないし、そもそもそういったものを研究すること自体が科学者の中では批判されたり禁止されている。

 

 

では、もしそれが「証明」されたとしたらどうだろう。

 

 

先ほど、上の二つの主張は同じ考え(前提)を持っていると書いたが、この仮定によって、この二つの主張の前提が浮き彫りになってくる。

この二つの主張はどちらも

「科学的に証明されたことであれば、それを根拠に差別してもよい」

という前提を共有している。

 

これが、極端な科学主義、科学万能主義の危うさである。科学は事実以外のものを提示しない。科学は科学以外の範疇では何の指標や正しさも担保しないのである。男女間における先天的な知能の差が証明されていないという「事実」も、劣等遺伝子なるものが存在しないという「事実」も、どちらもただの「事実」であって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。どちらの主張も、ナチス・ドイツの負の歴史から何も学んではいない。何の価値もない主張である。

真に妥当な主張というのは、科学と倫理とを切り離すことによってはじめてなされる。

正しい議論において、科学的事実は何ら倫理的結論を導きはしない。

 

 

 

 

倫理的議論における誤謬その2

自然主義的誤謬」

実はこちらも先ほどの誤謬と似ている。しかしこちらは科学的なもの以外も対象に含める。詳しく説明していこう。この自然主義的誤謬は最近では反出生主義(子供は作るべきでないという主張)に対する議論でしばしば起こる。例として、二つの自然主義的誤謬を挙げてみよう。

 

A「子供を作ることは善いことである。何故なら、それは人類が生物だからであり、子供を作ることは本能であり、人類としての本懐であるからだ。」

 

B「これまで、生物の中では弱い種は淘汰され強い種だけが生き残ってきた。それはとても自然なことである。ゆえに、現在の自然において動物が人間の手によって絶滅したとしても、それはある生物が他の生物を淘汰したというだけのことであり、むしろ善いことである。」

 

どちらの主張も自然主義的誤謬の例だ。生物的である、自然なことであるという性質が倫理的な善し悪しとイコールで結ばれている。これは反出生主義や自然保護における典型的な反論でしばしば見かけられるが、正しい倫理的議論においては妥当性を著しく欠いている。

 

そもそもこの自然主義的誤謬はG.Eムーアによって初めて定義された言葉だ。そして、ムーアの用法に従うならば、この言葉は何も自然であるということに限定されない。

ムーアは、「善い」とは何によって定義されるのかという問題からスタートさせている。「善い」とはいったいどういうことだろうか。自然であることが「善い」のか?科学的であることが「善い」のか?ムーアによれば、「善い」ということは他のどのような性質によっても定義されない。どのような性質も、道徳的価値基準を持ってはいないのである。

 

 

 

 

議論はディベートではない。

 

この二つの誤謬は、倫理的議論を破綻させる。なぜなら、もしこの二つの考えを持って議論に臨むのであれば、議論は終了してしまうからだ。議論というのは、討論(ディベート)とは決定的に異なる。議論において成功とは、様々な意見を出し合い、それを自身の中で吸収し、考えを深めることである。議論を終了させようとする人間は、そもそも議論に向いていない。自分の考えを他の人に認めさせるというのは、議論ではなく討論である。上で挙げた二つの誤謬を犯している人間というのは、そもそもが「議論は勝ち負けが存在する」という誤謬を犯していることが多い。暗黙の前提に気づき、他者の主張を理解して初めて、倫理というものは語られる。上で挙げた二つももちろん大事だが、最も大事なのはそういった根本的な姿勢の方にある気がする。

 

 

似たような記事をまた近いうちに投稿すると思うのでお楽しみに。