れっくすのつぶやき

マイペースに色んなことを書いてきます

子供と大人

最近すっかり寒くなってきましたね。ずっとポケモンやってたのでブログの更新が止まっていました、Rexです。

突然ですが皆さん、子供と大人の違いってなんだと思いますか。

まぁ、だいたいこう言う質問をすると皆、「大人になりたがってるのが子供、子供に戻りたがってるのが大人」とか、「自分以外の他者(家族や恋人)が人生の中心になったら大人」とか、そんな感じの答えが返ってきます。しかし総じて言えるのは、どうやらみなさん「大人」というものは体の大きさや年齢によって決定されるものではないと考えているようです。かなり面白いですね。その人の価値観や人生経験を垣間見れるいい質問だと僕は思います。というわけで今日の本題に入っていこうと思います。

 

 

 

 

 

 

サリーアン課題と呼ばれる心理学のテストがある。このテストの対象は3〜6才までの子供で、誤信念課題とも呼ばれている。テストの内容はある一つの問題に解答するだけという非常にシンプルなものだ。その問題の内容は以下の通り。

 

「ある一つの部屋にサリーとアンという二人の女の子がいる。そして部屋にはサリーのバスケットとアンの箱が置かれている。さて、サリーは自分の持っているビー玉をバスケットに入れて、そのあと部屋から出て行った。そしてその間に、アンが、サリーのバスケットに入っているビー玉を取り出し、自分の箱の中に入れてしまった。その後、部屋に戻ってきたサリーは、自分のビー玉を取り出そうとする。この時、サリーは自分のバスケットかアンの箱、どちらを開けるだろうか。」

 

サリーはどちらを開けるだろうか。普通の人間であれば(且つ3才までの子供でなければ)、当然、「サリーは自分のバスケットを開ける」と答えるだろう。ではそれは何故だろうか。それは僕たちが「サリーはビー玉がバスケットに入っていると思っている」ことを理解しているからだ。このように、「他者の視点」や「他者の考え」について考えられることを、心理学では心の理論と呼ぶ。このテストでは、5才や6才の子供が「サリーのバスケット」と答えたのに対し、3才などのまだ心の理論を獲得していない、言い換えれば心の発達において乳児期の段階である自己中心性を脱していない子供たちは、「アンの箱」と解答した。つまり、まだ自分と他人の知っていることや考えていることが違うということを認識できないのである。このサリーアン課題において言えば、「自分と他人の考えは異なる」ことを理解できることが、赤ちゃんと子供の違いだと言えるのではなかろうか。

 

 

 

 

 

では、子供と大人はどうだろう。

 

 

 

 

 

イギリスの小説家、R.L.スティーブンソンの短編の中に、『瓶の悪魔』(原題 The Bottle Imp)と呼ばれる話がある。その話の中にはもちろん悪魔が登場するわけだが、この悪魔は幸運なことに瓶に封印されており、しかもなんとその瓶を手にしたものの願いをなんでも叶えてくれるというなんとも親切な悪魔である。しかし親切と言えども悪魔は悪魔。この夢のような瓶にはいくつかのルールがある。

 

1.この瓶を所有したまま死ぬと、地獄へと落ち永遠に苦しむことになる。

2.しかし死ぬ前に誰かに瓶を売ることによって地獄行きを回避できる。

3.誰かにこの瓶を売るときは自分が瓶を買ったときの値段より低い価格で売らなければならない。同じ価格、あるいはより高い価格で売ろうとすると地獄へと落ちる。

 

かなりヘンテコなルールだが、特に興味深いのは3つ目の、「自分が買った時より低い価格で売らなければならない」のところだろう。このルールによって、この物語は一味違った面白さを醸し出している。

 

では、一旦この物語は置いといて、次の問題を考えてみてほしい。

 

 

 

「先ほどの瓶のルールに基づいて考えた場合、あなたがこの瓶を他の人から買い取る際に、地獄へと落ちることなく買えると言える妥当な値段はいくらか。また、それを論理的に確かめろ。」

 

 

あなたはいくらでこの瓶を買うのが妥当だろうか。確かに、10万円や5万円で買っても、1万円で売れば地獄行きは回避出来る。直感的に考えれば、5万が10万が妥当だろうか。

しかし、ちょっと待ってほしい。本当にそれは「地獄へ落ちることなく買える」と言えるだろうか?問題文にもある通り、もう少し論理的に確かめてみよう。

この問題を考えるには、まず「明らかに瓶を買うのが妥当ではない状況」を考えてみるのが良さそうだ。

例えば、この瓶が1円で売られていた場合、あなたは買うだろうか?そう、決して買わないはずだ。この瓶のルールでは「自分の買った値段より低い値段で売らなければならない」のだから、1円で買ってしまえばそれ以下の値段で売ることは不可能、つまり地獄行きが確定してしまう。というわけで、1円で買うのは妥当とは言えない。

では、2円ではどうだろうか。もちろん、これも妥当ではない。もし2円で買った場合、あなたはこれを1円で売らなければならない。しかし、1円だと先ほどのように妥当ではないので誰も瓶を買ってはくれない。結果あなたは地獄行き確定。

さて、察しのいい方ならもうお気づきだろうが、実はこの瓶を買うのに妥当な値段というのは存在しない。どのような値段であっても、3円だろうと4円だろうと、10万円だろうと、その時点であなたの地獄行きは確定しているわけである。

これは高校数学の数学的帰納法によって簡単に証明することができる。

まず、この値段は妥当ではない、という命題をP、任意の値段をnとしよう。

1.まず、命題P(この値段は妥当ではない)は1円で成り立つ。

2.任意の値段nが妥当ではない(と仮定した)とき、n +1円も妥当ではない。

3. 1、2により、命題Pが任意の値段nすべてに対して妥当ではないことが証明できる。

 

よってこの問題の答えは、「この瓶を地獄へ落ちず買える値段はない。また、それは数学的帰納法によって証明可能である。」

 

 

・・・

 

 

 

問題を論理的に確かめることによって、直感による誤謬を防ぐことができた。しかし、僕たちは直感において、この瓶を安全に買える値段がないということをイマイチ理解できない。それどころか、この瓶を買うのに妥当な値段があるということを無意識に確信しているかもしれない。

 

論理的な正しさというのは度々僕たちの生活実感からかけ離れたところにある。論理的に正しいとされていても、どうしても納得できないという問題が、この世界にはあふれている。有名なモンティホール問題や論理学の真理値計算もその類だ。

 

そして、人によってはこの実感と論理のズレに対して狼狽したり、インチキだと騒ぎ立てたりするだろう。

 

そして僕は、まさにこの「論理的な正しさに対してどのような態度を持っているのか」が、子供と大人を明確に分ける部分ではないかと思っている。

 

つい最近、2人の人間がこの「論理的な正しさに対する真摯さ」の無さ故に、多くの人々に袋叩きにされるサマを僕は見てきた。

一人は環境保護活動家であるグレタ・トゥーンベリさん。彼女の国連での演説は、多くの人間にとって非難の的となった。彼女の演説の内容は、まあ短く言い表すと、「お前たち大人が私たち子供の未来を奪っている。」という論旨の一点張りである。何か具体的なデータや改善案を提示するわけではなく、論理的にもおかしい部分が散見される。大人たちの責任を問い詰めることによって環境保護を訴えるというのは、確かにあまり喜ばしいものではない。しかし、問題は演説内容そのものではない。むしろ、ただ演説内容が酷いだけならば、ここまで彼女が責め立てられることは無かっただろう。

問題は彼女の演説に向けられた批判に対する、彼女の認識の誤謬にある。

彼女の演説への批判はそのほとんどが、あきらかに根拠やデータが薄いその主張の妥当性に関する批判である。しかし、彼女はこの批判を、「子供が国連で演説することに対する意地汚い大人達の誹謗中傷」と解釈してしまう。結果、さらに炎上するという事態に陥ってしまった。自らの勝手な思い込みによる客観的、論理的な判断の放棄ほかならない。既に多くの人間にボコボコに批判された彼女は、おそらくこれからも自分の中の思い込みの世界だけで生きるのだろう。

二人目はつい最近Twitterでも話題になった「なでしこ寿司」の件だ。これも先ほどの例同様、自らの間違い、非常に不衛生な調理環境、に対する批判を、「女性だから批判されている」という間違った解釈をすることによって、粗探しだの、女性差別だのと反論してしまった。グレタさんは年齢的にも子供だと言えるだろうが、こちらの場合より深刻だ。いい年した人間だが、僕から言わせてみればまだ「子供」である。自分の感覚から外れた正しさに対して、まったくもって不誠実すぎる。

 

 

何も僕は直感を捨てろと言ったり、全てを論理式で考えろとは言っていない。実際、直感も少しばかりは論理的正しさによって裏付けされていると僕は考えているし、論理があらゆる問題を解決するとも思っていない。

ただ、そういった論理的、客観的正しさに対して、僕たちは納得せずとも理解することは可能なのだ。どれだけ自分が納得できなくても、1+1=2である。

 

一歩立ち止まって、自分の考えに対して、本当にそれは正しいのか、今一度考えることのできる姿勢、柔軟さ。僕の出会ってきた「大人」達は、そういった賢さを備えている人たちだった。そういったことを、数学や論理学から取り出せる人間を、現在の教育は育てることができているだろうか。

 

人は勝手に大人にはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

要するにポケモンバトルでの読みすぎは危険ということです。