オタクと犯罪
「オタクは犯罪者予備軍である。」
というような主張は、もはやオタクたちにとっては無意味な言葉になってしまったと言えるだろう。
昨今、と言っても本当に最近は減りつつあるが、何か凶悪事件が起きると、その犯人とオタク文化(アニメ・マンガ・ゲームなど)との関係について報道されるということが度々起こる。そしてそういった報道がされる度に、SNSを中心にオタク達が憤慨し、ハーバードやら名前も聞いたことのない大学やらの研究を持ち出し、血眼になって否定する。
この悲劇とも言える一連の流れをどう捉えればいいのだろう。正直言ってこのテンプレじみたやりとりに飽き飽きしている人も多いんじゃなかろうか。
オタク達のマスメディアに対しての反論に、次のようなものが多く混じっている。
「犯人がアニメを見てたからアニオタは全員犯罪者予備軍というのなら、地球上のパンを食べている人は全員犯罪者予備軍だな!」
この反論を正直に受け取り、実際にパン食に対する抗議運動を起こす人間はいないだろう。何故なら、ほとんどの人はこれが単なるマスメディアに対しての皮肉でしかないと理解しているからだ。
では、なぜこのような皮肉が生まれるのだろうか。この皮肉に対して感じる細やかな違和感の正体は一体何だろうか。そもそも、このような発言は全て、ある種の前提の上に成り立っている。言うなれば、そこには「オタクと犯罪の間に一切の関連性は存在しない」という前提、真っすぐで確固たる信念が横たわっている。
これは適切だろうか。
イギリスの偉大な歴史家、E・H・カーがかつてケンブリッジ大学で行った講演、「歴史とは現在と過去の対話である」という一文で知られ、後に『歴史とは何か』という名で出版されることになったある一連の講演の中で、カーは出来事と原因の因果について、ある一つの例えを提示する。
「ジョーンズがあるパーティでいつもの分量を超えてアルコールを飲んでの帰途、ブレーキがいかれかかった自動車に乗り、見通しが全く利かぬブラインド・コーナーで、その角の店で煙草を買おうとして道路を横断していたロビンソンを轢き倒して殺してしまいました。混乱が片付いてから、私たちは——例えば、警察署——に集まって、この事件の原因を調査することになりました。これは運転手が半ば酩酊状態にあったせいでしょうか——この場合は、刑事事件になるでしょう。それとも、いかれたブレーキのせいでしょうか——この場合は、つい一週間前にオーバーホールした修理屋に何か言うべきでしょう。それとも、ブラインド・コーナーのせいでしょうか——この場合は、道路局の注意を喚起すべきでしょう。われわれがこの実際問題を議論している部屋へ二人の世に知られた紳士——お名前は申し上げますまい——が飛び込んできて、ロビンソンが煙草を切らさなかったら、彼は道路を横断しなかったであろうし、殺されなかったであろう、したがって、ロビンソンの煙草への欲求が彼の死の原因である、(中略)と滔々たる雄弁をもってわれわれに向って話し始めました。」
こういった場合、どういった考え方が適切と言えるだろうか。
一つの事件の原因として挙げられる諸要素のなかで、どれが正しくて、どれが間違っているのだろうか。
実際に考えてみよう。上の例では、事件に対して四つの原因が挙げられている。
1.ジョーンズが半ば酩酊状態にあったため
2.ブレーキがいかれていたため
3.ブレインド・コーナーがあったため
4.ロビンソンが愛煙家であったため
常識的に考えれば、いや、常識的に考えなくても、ほとんどの人が1~3を原因として推すだろう。実際にこのような事件が起きた場合、少なくとも4のような主張をする人はいない。
しかし、それはなぜなのだろう。犯罪者がアニメを見ていたということと、ロビンソンが愛煙家であったことは、はたして同じ範疇にあると言えるんだろうか。
忘れてはいけないのは、これらは皆、何一つ曇りのない事実であるということだ。ジョーンズが酔っていたのも、ブレーキがいかれてたのも、ロビンソンが愛煙家だったのもすべて事実だ。だから、誰も4のような主張に対して論理的反論を行うことはできない。4の主張は申し分なく論理的であり、嘘など全くついていない。
しかし現実では、4の「事実」は真っ先に切り捨てられる。なぜなら、それらは因果的に全く無意味なものだからだ。カーの言葉を借りるならば、「合理的な説明および解釈の型の中へ真実を嵌め込む」ことに失敗しているからだ。原因を突き止めるためには、数ある真実の大海から、有意味なものと無意味なものをしっかりと選別しなければならない。
では犯罪者とオタク文化の関係は、パン食と同様に切り捨てられるべきものなのだろうか。僕個人の意見としては、まだどちらとも言えない、というのが正直なところだ。オタクだから犯罪を起こした!とは言えないし、オタクと犯罪は何の接点もないとも言えない。
世の中には僕と同じような考えの人が多いようで、日々いろいろな場所で、オタク文化と犯罪について盛んに議論がされている。社会学や心理学の視点で、最近では、脳科学まで出てくるようになった。
しかし、当のオタク側と言えば、僕の見る限りでは、猛烈にこの関係を切り捨てようと必死になっているような気がする。
確かに、自分の好きなゲームやアニメが犯罪と結び付けられるのは不快でしかたないだろう。それはどんな趣味にも言えることだ。
しかし、だからといって何の議論もしないまま「犯罪とアニメは何の関係もありません!」と言い切るのは、むしろ自分の好きなものに対してあまりに不誠実じゃないだろうか。
そういった意見の中で根拠として持ち出されるのは、大抵海外のよくわからない脳科学の論文だったりするのだが、はっきりいって、間違いなく自分で読んですらいない。そもそも、海外と日本じゃアニメやゲームそのものの文化がかなり異なる上に、そういった研究は大抵未成年の非行や発達心理、臨床的なものに結びついており、上での議論にあまり関係のないようなものが多い。そういったものを真剣な議論の場に持ち出してきてしたり顔をしても、滑稽に見えるだけだ。
しかし、オタク達がここまで必死に犯罪とオタク文化の繋がりを否定するのも仕方がないような気がする。犯罪者に原因があるように、オタクが過剰反応するのにも原因があるものだ。
やはり、メディアの過度な煽りや偏見まみれの報道が影響しているのは間違いない。
そもそも日本のオタク文化がポルノと非常に強い繋がりがあるため、オタク文化と犯罪者という構図は、正しいかどうかは別として、パン食より何倍もわかりやすい。
マスコミは分かりやすくて金になる情報が大好物なので、オタクは格好の餌食といえるだろう。しかし最近では世間の声も厳しくなったので、「事実のみ」を載せることが多い。
それでも、そういう報道はやはり偏見を生むし、事件そのものの原因を、分かりやすい単純なものに一般化してしまう危険性をはらんでいる。正しい報道とは到底言い難いだろう。
結局僕たちはどうすればいいんだろうか。
オタクと犯罪。その関係性はまだ0にも100にもなってはいない。簡単に0にも100にもしてはいけない。
一旦話し合うことをやめてしまえば、やがて消えていくのは犯罪ではなくオタクの方だ。
児童ポルノをめぐる規制の議論も、アニメと性犯罪の議論も、考え続けなければいけない。有意味か無意味かは、必ず誰かが決めなければならない。
本当にその文化を愛しているならば、それは当然の責任と言えるだろう。
メディアもオタクも、もう「そういう時代」じゃない。