れっくすのつぶやき

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スペクトラム雑感

「虹の色は何色だろうか」と問われると、ほとんどの人は七色と答えるだろう。その七色が何色をしているかまできちんと答えてくれる丁寧な人もいるかもしれない。

ここで少し質問を変えて、「では、本当に虹は七色か、つまり、虹という現象で観測できる色は七色のみだろうか?」と尋ねたら、ほとんどの人はすんなりハイとは言わなくなってしまう。少なくとも、学校で光と虹について学んだことのある人間なら首を横に振るだろう。

虹というのは無限の色で出来ている。太陽から地上に届く光のスペクトルは連続しており、一色一色線で区切られているわけではなく、ある色からある色へ、という変化を無限に繰り返した色になっている。

スペクトラム」という言葉は日本語で「連続体」を表す。虹の色というのは、その色の構造自体がカテゴリーとして扱えない、まさにスペクトラム概念の代表格と言える。

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実際に色を数えることは不可能

 

スペクトラムという言葉で近頃最も連想されるのは、「自閉症スペクトラム」という言葉だろう。今では当たり前のように使われる言葉だが、その歴史は意外と浅い。

普通の感染症などであれば、病気であるか、そうじゃないか、というカテゴリー(範疇)だけで判断できるが、自閉症の場合、そういった普通の病気とは少々事情が異なる。

そもそも自閉症という「カテゴリー」が生まれたのは20世紀中葉のアメリカだった。児童精神科医だったレオ・カナーが、自分のクリニックで見た子供の何人かに共通した独特の行動パターンを見つけたことから始まる。

一方そのころオーストリアでは、医師のハンス・アスペルガー自閉症に関する論文を提出、アスペルガーの診断した子供たちはカナーの診断した子供と多くの共通点を持っていた。しかし、相違点もあった。

アスペルガーの診断した子供たちには特徴があり、とりわけ言語でのコミュニケーション能力や知的能力において、カナーの診断した子供たちより比較的高かった。つまり、自閉症に伴う症状のうち、「コミュニケーションの障害」の面では、比較的症状が軽かったと言える。しかし、この論文は第二次世界大戦中にドイツ語で書かれた文章だったこともあり、その後数十年間、一部の研究者以外からは忘れられてしまう。

次にこの論文が注目され始めるのは1980年代のイギリスだった。自閉症研究者のローナ・ウイングは、自らの論文で、アスペルガーの提唱した「アスペルガー症候群」を広く世に広めようと尽力した。

なぜこのタイミングで再びアスペルガーの論文が注目されることになったのか?

それは当時のイギリスの社会背景が関わってくる。当時のイギリスでは自閉症の概念がかなり狭かった(カナーの古典的自閉症概念を基準にしていた)ため、その診断基準は厳密なものだった。それゆえに、典型的な症例はともかく、多かれ少なかれ自閉症的な傾向を持つ子供たちは、診断基準にしっかりと合致しないので、自閉症のカテゴリーに含むことが不可能だった。その結果、制度の壁に阻まれて、必要な福祉サポートが受けられないといった状況が発生していた。アスペルガー症候群という言葉は、新しい何かの発見というよりも、既存の自閉症概念を広げるため再び世に出てくることになったのだ。

そしてここにきて初めて、「自閉症スペクトラム」という概念が登場することになる。自閉症スペクトラムは、カナーが発見した自閉症のほかにも、アスペルガー症候群、さらにはそれ以外の厳密な定義に収まりきらないグループをも含む幅広い概念だ。

 

ここまで自閉症スペクトラムという言葉を追ってきたが、最近僕は自閉症スペクトラムという言葉の存在が、社会にとって非常に珍しいもののように感じてきた。

というのも、スペクトラムという概念自体、非常に社会制度全般と相性が悪いからだ。

カテゴリー(範疇)概念とスペクトラム(連続)概念は、明らかにカテゴリーの方が社会にマッチしている。

例をいくつか挙げるとすれば、まず年齢の概念が挙げられる。

年齢の数値自体はそこまでカテゴリー化されている訳じゃない。19歳10か月と20歳ではしっかりと連続性がある。しかし、これを大人と子供(成人や未成年)というカテゴリーに分けようとすれば、その根拠を年齢の内部に求めようとするのはたちまち困難になってしまう。つまり、社会というものが介入することによって、はじめて大人と子供という境界線は確固としたものになる。

社会の中で人の位置を分ける場合も、やはりこれはカテゴリー化される。より正確に言えば、判断基準ががカテゴリーへと変換される。頭の良さというのはスペクトラム的なものなので、学歴というカテゴリーではかったほうが分かりやすい。年収はそれ自体スペクトラム的なものだが、人の位置で分けるならばやはりどこかで高収入、低収入のカテゴリーへと変換されてしまう。

虹の色も、結局は社会によってカテゴリーに変換されてしまったものだ。五色と見る国もあれば、八色と見る国もある、人々が所属するコミュニティーや社会によって虹の色は決定される。何色に見えるかじゃなく、何色と見るかだ。

そして、もっとも社会によるカテゴリー化が顕著なものは、「国境」という概念だろう。国境線をめぐる問題はカテゴリーという装置がいかに社会にとって有用なものかを良くも悪くも示している。

 

 

スペクトラムという概念は、概して人々を不安に陥れる要素があるように思う。

何が正しくて何が間違っているか、何が良くて何が悪いか、人は答えというものを求める生き物だ。

そして、スペクトラム概念はそういった答えを一瞬にして曖昧なものにして消し飛ばしてしまう。が、それが悪いこととも限らないんじゃないだろうか。

 

自閉症スペクトラム」という言葉は、社会の医療制度だけではなく、医学、心理学、精神分析学などの世界を大きく変えることになった。今までは見えなかったものを見えるようにするための、世界を見つめ直すレンズ。大きな思考転換だ。

もし国境にスペクトラム概念が持ち込まれたらどうなるだろう、それがいい方向に進もうが悪い方向に進もうが、世界が大きく変わるのは間違いない。

社会や医療に関わらず、そしてカテゴリーとスペクトラムに関わらず、身の回りでこういった思考転換ができるようになれば、今まで見えなかった新しいものが見えてくるんじゃなかろうか。

最近はそういったこと考える毎日です。