ゲームレビューの読み方
エアプ認定の構造
エアプ認定は以下のようなスキームで成り立っている。
1.ゲームのプレイ内容とゲームの批評内容の間には必然性が存在する。
2.1の前提にしたがい、特定のゲームプレイ内容(X)の評価は(A)になるはずである。
3.レビュワーの評価が(B)であった場合、1の前提に悖る。
4.よって、彼が(X)を(B)と評価した理由は、彼が(X)を(B)と評価したのではなく、そもそも(X)をプレイしていないから(エアプだから)である。
普通に考えればこの推論が何かおかしいことに気づくが、なぜこの論理がネットの世界でここまで幅を利かせているのかを考えてみる。
昨今のゲームレビューに対する非難は論文査読のプロセスと非常に似ている。彼らは実際のゲームプレイ内容という”出典”に過剰なまでに固執する。間違えた評価/解釈はその”出典”に問題があるからだという論理を本気で信じている。この論理が彼らをここまで真剣にさせるのは、彼らがレビューという行為に対して「形式的な正解」という信念を持っていることの証左ではなかろうか。
正しいレビューの在り方
彼らの想定する「正しいレビュー」はまさしく次のようなものである。
「レビューとは、そのゲームの普遍的、定量的な価値の分析である。それを行うためにまず、レビュワーはそのゲームにおけるトリビアルなものを含めた包括的知識だけでなく、そのゲームがどのような文脈にあり、またゲーム史上のどの部分に位置づけられるかを判断する総合的な知識も必要である。
それらを踏まえ、制作者がどのような意図を達成しようと試みているのか、そしてどれくらい達成しているのかについてその検証を行う。この作業にはカテゴリーに沿ったいくつかの客観的指標を参照し、これに従わねばならない。これら諸条件を達成したものが”正しいレビュー”としての価値を初めて獲得する。」
点数型レビューの形態は多かれ少なかれこの主張と軌を一にする。ゲームには正しく客観的な評価が成されるという暗黙の同意がある。点数はあくまで「レビュワーにとっての点数」であるという人もいるが、ゲームの価値を定量的に測定しようとする試みである以上、それらは何らかの絶対的な基準点との比較で語られる。
「レビューには正解がある」という考え方は役に立つことも多い。間違った知識を排除し正しい解釈に変更していくというコモン的営みはゲーム史といった分野において特に効力を発揮する。
しかしこの考えは必然的に、「どちらのレビューがより優れているか」という論戦に帰着する。ゲームに関する知識自慢・理解度比べに必ず陥る、断言してもいい。
こうして、そこに立ち会う全ての人間が「辿り着くべき正解」を目指して競い合う図式が完成する。そして「当然押さえておくべき」知識の羅列や循環参照を繰り返すうちに、レビューという行為はさながらクイズ大会の様相に向かっていくこととなる。もっとも、そこで得たイニシアチブこそが今日のゲームメディア・ライターの”権威”を支えているのかもしれない。
エアプ認定をするユーザーの主張はこの点数型レビューの理念をその理論的背景としている気がする。
ゲームを見るか筆者を見るか
点数型の見方はライターの権威を支えはするが、それ以外の批評アプローチに悉くなじまない。筆者の”主観”で書かれた記事を”事実”で分析していけばかならずどこかで壁にぶち当たる。実際に、ゲームキャラクターをフェミニズムの文脈で捉えたり、反意図主義の文法で好き勝手にクソゲーとこき下ろしたりするのは、この界隈では異常なまでに忌避される。それほどまでに、批評アプローチの多様化が分断を生んでいるということである。
私はゲームのレビューを見る際、「ゲームの価値」ではなく「書き手の価値」を見ている。私がゲームレビューを読むのは決まってそのゲームをクリアした「後」であり、私が知りたいのはそのゲームの「客観的評価」ではなく「レビュワーが何を感じたか」の方である。「BotWの歴史的意義」よりも「名越康文先生のBotW」を選ぶ傾向にある。
私とは対照的に、人ではなくゲームそのものの価値が知りたいという方もおられるだろう。メタスコアや点数型メディアのレビュー、あるいは権威ある業界人の記事を見ながら、そのゲームの客観的価値を自ら形成していこうとする人々である。
どちらがいいという話ではなく、「このような読み方を自分はしている」と自覚することがまず大事な気がする・・・よね?