れっくすのつぶやき

マイペースに色んなことを書いてきます

趣味と教養について 前編

最近、自分の中で価値観が変わったなと感じる。といっても、怪しい宗教よろしく突然ある時点から価値観がガラッと180度変わったとか、そういった体験ではなく、むしろ長い時間をかけて、歯の矯正のように少しずつ変わってきた。第一、自分自身そのような、人生において価値観が正反対になってしまうような体験には些か懐疑的だ。もしそのような体験をした人がいたのだとしたら、さぞ薄っぺらい価値観だったのだろうと同情してしまうかもしれない。

話がそれてしまった。で、一体どんな価値観が変化したんだという話だが、自分はつい最近まで、「趣味信者」であった。信者などという言葉を使うと、まるで宗教か何かのように聞こえるが、まことにその通り。趣味は宗教である。

さて、この趣味教だが、自分は幼少の時からまんまとこの宗教に入信していた。小さい頃の趣味はサッカーとビデオゲームだった。ゲームの方は今でも趣味として残っているが、サッカーは11人必要なのでコミュニケーションの苦手な自分にとって趣味として続けるのは非常に困難だった。しかし、今ではその運動へのモチベーションはダンスへとシフトしている。自分の人生を振り返ると、趣味を初めて持ち始めた幼少の頃から現在に至るまで、常に自分は趣味に取りつかれてきた。仕事や日常生活の家事以外の時間は、ほとんど趣味に費やしてきた。当然、それを自分は何ら異常だとも感じなかった。なぜなら、自分以外の人間もみなそうだったからだ。家族、友人、恋人、自分の周りの人間はみな何かしらの趣味を持っており、みな休日は気が狂ったようにそれに取り組む。好きこそものの上手なれとはよく言ったもので、人間の趣味に対する活動エネルギーはとんでもない。その情熱を仕事などにも向けられればいいのだが。

閑話休題、こういうこともあって、人は誰しも趣味にいそしむものだという価値観が長い長い時間をかけて自分の中に形成されていったのだった。

大学時代、変な奴と知り合うことになった。同じ学部で、一緒に講義のあとメシを食べに行ったり、時たまに映画を見に行ったりする程度の仲だった。そいつはなかなかのハンサムで、勉強もでき、自分から見ればかなりの完璧人間だった、"ある点"を除いては。

ある日、ふとそいつに「休日には何をしているんだ」と尋ねてみた。そいつは地方から下宿しており、大学から徒歩10分もかからないような場所に住んでいた。あまり特定されるようなことは言いたくないが、自分の通っていた大学周辺は自転車さえあれば遊ぶには事欠かない場所だった。そこで大学生活を謳歌しているんだろうと踏んだが、返ってきた答えは「いや、べつに。」という一言のみだった。

 

「どこかよく行く場所はないのか。」

「いや、ない。」

「部活やサークルに行っているのか?」

「いや、そんなものには入ってない」

「それじゃあバイト漬けか?」

「バイトはしていない、仕送りだ。」

 

ここで、自分はほほん・・・と思った。なるほど、こいつは極度のインドア派で、いつも家でゲームなりマンガなり映画なりを貪っているのだなと決め込んだ。そうなると、インドア派の自分ともかなり趣味が合うのではないか、そう思って、少しいい気分になった。

 

「なるほど、じゃあ家では何をしているんだ。」

「何も。」

 

当惑というほかなかった。そいつは明らかに、この一人一趣味の時代、全国民趣味時代に取り残された人間の一人だった。しかし、これは自分の主義に反する。人は誰しも趣味を持つべきである。

本当に趣味はないのかと尋ねると、娯楽をやらないわけではないが趣味は特にないと返ってきた。当時の自分にとって明らかに異質な人間として映ったのは言うまでもない。

恐らく、そのころの自分には「なにもしない」ということが全く持って想像できなかったのだろう。「なにもしない」をするということを全く理解できなかった。

しかし最近になって、同じような人間と出会う回数が増えた。それに伴って少しずつ「なにもしない」をできるということがどういうことかを理解してきた。

そして、今に至っては「なにもしない」を自分でするようになってきた。そして驚くべきことに、これがなかなか、いいものだということに気づいた。

なにもしないとは言っても、寝るのとは違う。何もしないことで自分の内面と向き合ったり想像力を働かせたり、ちょっと難しい考え事までできるようになる。いずれも趣味をしているときにはできないようなことだ。

さいころ、昔の人間はさぞ退屈だろうと考えた。持てるような趣味もない、ひどい時代だ、そんな中発狂せずに暮らせるなんて異常他ならないと。

しかし、考えてみれば、異常他ならないのはむしろ現代の方だ。いきすぎたコマーシャリズムとメディアの「趣味をしろ」という洗脳に私たちがかかっているだけだ。何かをしなければならないという強迫観念は江戸時代にはなかったはずである。

旅行に出かけた男女。そのうちの一人(どちらでもいい)が、長時間バスに揺られた後、ついに音を上げる。「もうたくさんだ、せっかく北海道まで来たのに、あるのはだだっぴろい自然だけ。まったくもってつまらない!」と、こんな小噺もあるが、北海道にきてまで旅館のレジャー施設で遊ぶというのなら世話ない。都会の喧騒から離れて、普段趣味に埋もれて過ごすことに疲れた人間が、何もしないを行う。旅行とはそういうもんじゃないだろうかと最近は思うようになってきた。

 

かくして、自分は趣味という呪いから解かれたわけだが、まだ社会はこの呪いにとらわれ続けているようだ。何もしないのを嫌がり、暇を嫌悪し、常に何か面白い外的刺激を享受しようとしている。

もっと内面的な娯楽を楽しんでみてもいいんじゃないだろうか。

と、ここまで書いてきたが実はもう一人、自分の狭量な価値観を矯正するのに貢献した人物がいる。「退屈というのは教養のない人間の言葉である」と一刀両断する大学時代の教授だが、この話はまたいつか。