れっくすのつぶやき

マイペースに色んなことを書いてきます

2019冬アニメレビュー「かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜」

2019年の冬アニメは、僕の見た限りでは「良作揃い」だった。かぐや様に約ネバ、えんどろ~やわたてんなど、どれも見ごたえのあるアニメだったと感じる。

ここでは今期アニメの中でも特に面白かったアニメの一つ、かぐや様は告らせたいをレビューしていく。

 

 

 

かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜

 

あなたはアニメに好きなジャンルがあるだろうか?もしあなたの好きなジャンルが「ラブコメディ」なら、かぐや様があなたにとって素晴らしいアニメであることは間違いない。週刊ヤングジャンプに連載されている同名のマンガが原作で、アニメーション制作は様々な名作を生み出している「A-1 Pictures」。すでに実写映画化も決定しており、放送前からかなり期待されていた作品でもある。

天才たちが集う秀知院学園を舞台に、生徒会長である白銀御行と副会長である四宮かぐやの「恋愛頭脳戦」が繰り広げられる、というのが本作のあらすじだ。

 

 

 

・ストーリー

~恋愛とギャグの親和性~

ブコメが「ラブコメディ」の略である以上、ラブコメでギャグは必要不可欠なものだ。僕はアニメの中でもコメディが好きで、これまで何度もアニメに笑わされてきた。しかし、ラブコメディというジャンルは、恋愛モノであることとギャグを両立しなければいけないという課題を抱えている。これが非常に難しく、どれだけギャグが面白くても恋愛部分が適当だと白けてしまい、ラブコメとして非常につまらないものになってしまいがちだ。もちろん逆も然り、どれだけ恋愛部分を面白く作っても、ギャグがお粗末だと笑えない。かぐや様はこの「ギャグと恋愛の両立」をうまく落とし込んでいると言える。

白銀御行と四宮かぐやは、お互い相手に恋心を持っているのだが、なかなか二人のプライドが邪魔して相手への気持ちを伝えることができない。つまり、タイトルにもある通り二人とも相手に「告らせたい」のだ。天才たちの恋愛頭脳戦の意味が、第一話で明かされる。これがかなり面白く、頭脳戦パート(お互いに相手に告らせようと画策するパート)では、二人の会話とモノローグが飛び交い、非常にテンポのいいギャグになっている。画面上には二人の心のイメージと呼べるものが度々登場し、ナレーターの声もシーンによってさまざまな顔を見せ非常に面白い。一方で、レビューを書くにあたって少し原作を読んでみたが、もう少しアニメ特有の絵的表現を入れてもよかったのではないかなというシーンもいくつか散見できた。

ブコメのラブの部分もしっかりと残されているのもかぐや様の良さだろう、各エピソードしっかりとオチがあり、その中には恋愛部分に振り切ったシーンも存在する。最終話付近では若干シリアスな要素も絡むが、そういったエピソードでも最後はしっかりと「ラブ」と「コメディ」でオチていたのは良かった。

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・演出

~ツッコミ不在のバカバカしさとは~

 個人的に好きなシーンがある。11話で公開されたエピソード、藤原千花は超食べたいだ。生徒会書記の藤原千花がラーメン屋でラーメンを食べるエピソードだが、このエピソードのギャグはアニメ中の全エピソードの中で一番面白かった。メインとなる白銀御行と四宮かぐやが登場しないにも関わらずだ。

一人で空腹の中ラーメン屋へと入店する千花、そこにいたのはとあるラーメン好きのサラリーマン、彼はいわゆる「ラーメン通」で、入店した千花を見るなり心の中で「ケーキ屋と間違えたのかな?」と嘲笑する。このエピソードでは千花はただラーメンを美味しそうに食べるだけで、ほとんどのセリフがこのラーメン通の男の心の中から語られる。無意識にラーメン通の「最適解」を叩き出していく千花に、男は段々動揺を隠せなくなっていくというのがこのエピソードの笑いどころなわけだが、このやり取りが本当にしょーもない。途中の劇画タッチの絵や壮大な劇伴、迫真のセリフ、ここでもやはり心理戦が行われるわけだが、そのすべてがしょーもないのだ。

しかし、このしょーもなさやくだらなさが、あらゆるギャグの面白さでありエッセンスになっている。かぐや様には物語の設定上明確なツッコミ役が存在しない、ツッコミ不在の中でこそ、このいい意味でのバカバカしさは光るのだ。このエピソードは本当に笑えて、最後は謎の感動まで覚えてしまった。原作では千花がラーメン屋から出た後にもう一ネタあるのだが、アニメでこのギャグをやるならばカットしたのはむしろいい判断だったと言えるだろう。

そしてかぐや様の良いところは、アニメ全編でこのバカバカしさが物語の設定と非常に高いレベルでマッチしていることだ。ただ、欲を言うならばもう少し劇伴にはこだわってほしかったし、良いシーンにはただマンガのコマをそのままアニメにする以上のことをやってほしかった。その点ではどちらも平凡かそれ以下だったと感じた。

 

 

 

総評

 『かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜』では、恋愛描写とギャグ描写のどちらも、非常に高いレベルで纏まっている。背景美術やセットデザインで混乱することもないし、第3話のエンディングでチカッとチカ千花の音楽にのって踊る藤原書記は素晴らしいアニメーションだった。キャラクターもそれぞれ魅力的で、一部掘り下げが足りないキャラクターもいたものの、不要だと思うようなキャラは一人もいなかった。演出も、白銀御行と四宮かぐやの二人きりのシーンではしっかりとしたラブコメの作りになっていたし、カットやカメラワークもちゃんと意図した場面で使われており、二人の恋愛の行く末を見届けたくなった。安易なパロディや唐突なシリアスもないので、誰でも気軽に見ることができる、まさに万人にお勧めできるラブコメアニメだと言えるだろう。

 

7.5/10 GREAT

 

良かった点

・ギャグと恋愛描写のバランスが良く見ていて飽きない。

・キャラクター描写がしっかりとされていてタイピカルなキャラがいない。

・OP曲とED曲の中毒性。

 

悪かった点

・アニメにした意義があまり感じられないカット割り。

・終盤の展開の微妙な分かりづらさ。

・セリフ以外での演出は分かりやすいが平板。

オタクと犯罪

「オタクは犯罪者予備軍である。」

 

 

というような主張は、もはやオタクたちにとっては無意味な言葉になってしまったと言えるだろう。

 

昨今、と言っても本当に最近は減りつつあるが、何か凶悪事件が起きると、その犯人とオタク文化(アニメ・マンガ・ゲームなど)との関係について報道されるということが度々起こる。そしてそういった報道がされる度に、SNSを中心にオタク達が憤慨し、ハーバードやら名前も聞いたことのない大学やらの研究を持ち出し、血眼になって否定する。

 

この悲劇とも言える一連の流れをどう捉えればいいのだろう。正直言ってこのテンプレじみたやりとりに飽き飽きしている人も多いんじゃなかろうか。

 

オタク達のマスメディアに対しての反論に、次のようなものが多く混じっている。

「犯人がアニメを見てたからアニオタは全員犯罪者予備軍というのなら、地球上のパンを食べている人は全員犯罪者予備軍だな!」

 

この反論を正直に受け取り、実際にパン食に対する抗議運動を起こす人間はいないだろう。何故なら、ほとんどの人はこれが単なるマスメディアに対しての皮肉でしかないと理解しているからだ。

 

では、なぜこのような皮肉が生まれるのだろうか。この皮肉に対して感じる細やかな違和感の正体は一体何だろうか。そもそも、このような発言は全て、ある種の前提の上に成り立っている。言うなれば、そこには「オタクと犯罪の間に一切の関連性は存在しない」という前提、真っすぐで確固たる信念が横たわっている。

 

これは適切だろうか。

 

イギリスの偉大な歴史家、E・H・カーがかつてケンブリッジ大学で行った講演、「歴史とは現在と過去の対話である」という一文で知られ、後に『歴史とは何か』という名で出版されることになったある一連の講演の中で、カーは出来事と原因の因果について、ある一つの例えを提示する。

 

 

「ジョーンズがあるパーティでいつもの分量を超えてアルコールを飲んでの帰途、ブレーキがいかれかかった自動車に乗り、見通しが全く利かぬブラインド・コーナーで、その角の店で煙草を買おうとして道路を横断していたロビンソンを轢き倒して殺してしまいました。混乱が片付いてから、私たちは——例えば、警察署——に集まって、この事件の原因を調査することになりました。これは運転手が半ば酩酊状態にあったせいでしょうか——この場合は、刑事事件になるでしょう。それとも、いかれたブレーキのせいでしょうか——この場合は、つい一週間前にオーバーホールした修理屋に何か言うべきでしょう。それとも、ブラインド・コーナーのせいでしょうか——この場合は、道路局の注意を喚起すべきでしょう。われわれがこの実際問題を議論している部屋へ二人の世に知られた紳士——お名前は申し上げますまい——が飛び込んできて、ロビンソンが煙草を切らさなかったら、彼は道路を横断しなかったであろうし、殺されなかったであろう、したがって、ロビンソンの煙草への欲求が彼の死の原因である、(中略)と滔々たる雄弁をもってわれわれに向って話し始めました。」

 

 

こういった場合、どういった考え方が適切と言えるだろうか。

 

一つの事件の原因として挙げられる諸要素のなかで、どれが正しくて、どれが間違っているのだろうか。

 

実際に考えてみよう。上の例では、事件に対して四つの原因が挙げられている。

1.ジョーンズが半ば酩酊状態にあったため

2.ブレーキがいかれていたため

3.ブレインド・コーナーがあったため

4.ロビンソンが愛煙家であったため

 

常識的に考えれば、いや、常識的に考えなくても、ほとんどの人が1~3を原因として推すだろう。実際にこのような事件が起きた場合、少なくとも4のような主張をする人はいない。

 

しかし、それはなぜなのだろう。犯罪者がアニメを見ていたということと、ロビンソンが愛煙家であったことは、はたして同じ範疇にあると言えるんだろうか。

 

 

忘れてはいけないのは、これらは皆、何一つ曇りのない事実であるということだ。ジョーンズが酔っていたのも、ブレーキがいかれてたのも、ロビンソンが愛煙家だったのもすべて事実だ。だから、誰も4のような主張に対して論理的反論を行うことはできない。4の主張は申し分なく論理的であり、嘘など全くついていない。

 

しかし現実では、4の「事実」は真っ先に切り捨てられる。なぜなら、それらは因果的に全く無意味なものだからだ。カーの言葉を借りるならば、「合理的な説明および解釈の型の中へ真実を嵌め込む」ことに失敗しているからだ。原因を突き止めるためには、数ある真実の大海から、有意味なものと無意味なものをしっかりと選別しなければならない。

 

 

では犯罪者とオタク文化の関係は、パン食と同様に切り捨てられるべきものなのだろうか。僕個人の意見としては、まだどちらとも言えない、というのが正直なところだ。オタクだから犯罪を起こした!とは言えないし、オタクと犯罪は何の接点もないとも言えない。

世の中には僕と同じような考えの人が多いようで、日々いろいろな場所で、オタク文化と犯罪について盛んに議論がされている。社会学や心理学の視点で、最近では、脳科学まで出てくるようになった。

 

 

しかし、当のオタク側と言えば、僕の見る限りでは、猛烈にこの関係を切り捨てようと必死になっているような気がする。

確かに、自分の好きなゲームやアニメが犯罪と結び付けられるのは不快でしかたないだろう。それはどんな趣味にも言えることだ。

しかし、だからといって何の議論もしないまま「犯罪とアニメは何の関係もありません!」と言い切るのは、むしろ自分の好きなものに対してあまりに不誠実じゃないだろうか。

 

そういった意見の中で根拠として持ち出されるのは、大抵海外のよくわからない脳科学の論文だったりするのだが、はっきりいって、間違いなく自分で読んですらいない。そもそも、海外と日本じゃアニメやゲームそのものの文化がかなり異なる上に、そういった研究は大抵未成年の非行や発達心理、臨床的なものに結びついており、上での議論にあまり関係のないようなものが多い。そういったものを真剣な議論の場に持ち出してきてしたり顔をしても、滑稽に見えるだけだ。

 

 

しかし、オタク達がここまで必死に犯罪とオタク文化の繋がりを否定するのも仕方がないような気がする。犯罪者に原因があるように、オタクが過剰反応するのにも原因があるものだ。

 

やはり、メディアの過度な煽りや偏見まみれの報道が影響しているのは間違いない。

そもそも日本のオタク文化がポルノと非常に強い繋がりがあるため、オタク文化と犯罪者という構図は、正しいかどうかは別として、パン食より何倍もわかりやすい。

 

マスコミは分かりやすくて金になる情報が大好物なので、オタクは格好の餌食といえるだろう。しかし最近では世間の声も厳しくなったので、「事実のみ」を載せることが多い。

 

それでも、そういう報道はやはり偏見を生むし、事件そのものの原因を、分かりやすい単純なものに一般化してしまう危険性をはらんでいる。正しい報道とは到底言い難いだろう。

 

 

 

 

 

 

結局僕たちはどうすればいいんだろうか。

オタクと犯罪。その関係性はまだ0にも100にもなってはいない。簡単に0にも100にもしてはいけない。

一旦話し合うことをやめてしまえば、やがて消えていくのは犯罪ではなくオタクの方だ。

児童ポルノをめぐる規制の議論も、アニメと性犯罪の議論も、考え続けなければいけない。有意味か無意味かは、必ず誰かが決めなければならない。

本当にその文化を愛しているならば、それは当然の責任と言えるだろう。

 

 

メディアもオタクも、もう「そういう時代」じゃない。

スペクトラム雑感

「虹の色は何色だろうか」と問われると、ほとんどの人は七色と答えるだろう。その七色が何色をしているかまできちんと答えてくれる丁寧な人もいるかもしれない。

ここで少し質問を変えて、「では、本当に虹は七色か、つまり、虹という現象で観測できる色は七色のみだろうか?」と尋ねたら、ほとんどの人はすんなりハイとは言わなくなってしまう。少なくとも、学校で光と虹について学んだことのある人間なら首を横に振るだろう。

虹というのは無限の色で出来ている。太陽から地上に届く光のスペクトルは連続しており、一色一色線で区切られているわけではなく、ある色からある色へ、という変化を無限に繰り返した色になっている。

スペクトラム」という言葉は日本語で「連続体」を表す。虹の色というのは、その色の構造自体がカテゴリーとして扱えない、まさにスペクトラム概念の代表格と言える。

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実際に色を数えることは不可能

 

スペクトラムという言葉で近頃最も連想されるのは、「自閉症スペクトラム」という言葉だろう。今では当たり前のように使われる言葉だが、その歴史は意外と浅い。

普通の感染症などであれば、病気であるか、そうじゃないか、というカテゴリー(範疇)だけで判断できるが、自閉症の場合、そういった普通の病気とは少々事情が異なる。

そもそも自閉症という「カテゴリー」が生まれたのは20世紀中葉のアメリカだった。児童精神科医だったレオ・カナーが、自分のクリニックで見た子供の何人かに共通した独特の行動パターンを見つけたことから始まる。

一方そのころオーストリアでは、医師のハンス・アスペルガー自閉症に関する論文を提出、アスペルガーの診断した子供たちはカナーの診断した子供と多くの共通点を持っていた。しかし、相違点もあった。

アスペルガーの診断した子供たちには特徴があり、とりわけ言語でのコミュニケーション能力や知的能力において、カナーの診断した子供たちより比較的高かった。つまり、自閉症に伴う症状のうち、「コミュニケーションの障害」の面では、比較的症状が軽かったと言える。しかし、この論文は第二次世界大戦中にドイツ語で書かれた文章だったこともあり、その後数十年間、一部の研究者以外からは忘れられてしまう。

次にこの論文が注目され始めるのは1980年代のイギリスだった。自閉症研究者のローナ・ウイングは、自らの論文で、アスペルガーの提唱した「アスペルガー症候群」を広く世に広めようと尽力した。

なぜこのタイミングで再びアスペルガーの論文が注目されることになったのか?

それは当時のイギリスの社会背景が関わってくる。当時のイギリスでは自閉症の概念がかなり狭かった(カナーの古典的自閉症概念を基準にしていた)ため、その診断基準は厳密なものだった。それゆえに、典型的な症例はともかく、多かれ少なかれ自閉症的な傾向を持つ子供たちは、診断基準にしっかりと合致しないので、自閉症のカテゴリーに含むことが不可能だった。その結果、制度の壁に阻まれて、必要な福祉サポートが受けられないといった状況が発生していた。アスペルガー症候群という言葉は、新しい何かの発見というよりも、既存の自閉症概念を広げるため再び世に出てくることになったのだ。

そしてここにきて初めて、「自閉症スペクトラム」という概念が登場することになる。自閉症スペクトラムは、カナーが発見した自閉症のほかにも、アスペルガー症候群、さらにはそれ以外の厳密な定義に収まりきらないグループをも含む幅広い概念だ。

 

ここまで自閉症スペクトラムという言葉を追ってきたが、最近僕は自閉症スペクトラムという言葉の存在が、社会にとって非常に珍しいもののように感じてきた。

というのも、スペクトラムという概念自体、非常に社会制度全般と相性が悪いからだ。

カテゴリー(範疇)概念とスペクトラム(連続)概念は、明らかにカテゴリーの方が社会にマッチしている。

例をいくつか挙げるとすれば、まず年齢の概念が挙げられる。

年齢の数値自体はそこまでカテゴリー化されている訳じゃない。19歳10か月と20歳ではしっかりと連続性がある。しかし、これを大人と子供(成人や未成年)というカテゴリーに分けようとすれば、その根拠を年齢の内部に求めようとするのはたちまち困難になってしまう。つまり、社会というものが介入することによって、はじめて大人と子供という境界線は確固としたものになる。

社会の中で人の位置を分ける場合も、やはりこれはカテゴリー化される。より正確に言えば、判断基準ががカテゴリーへと変換される。頭の良さというのはスペクトラム的なものなので、学歴というカテゴリーではかったほうが分かりやすい。年収はそれ自体スペクトラム的なものだが、人の位置で分けるならばやはりどこかで高収入、低収入のカテゴリーへと変換されてしまう。

虹の色も、結局は社会によってカテゴリーに変換されてしまったものだ。五色と見る国もあれば、八色と見る国もある、人々が所属するコミュニティーや社会によって虹の色は決定される。何色に見えるかじゃなく、何色と見るかだ。

そして、もっとも社会によるカテゴリー化が顕著なものは、「国境」という概念だろう。国境線をめぐる問題はカテゴリーという装置がいかに社会にとって有用なものかを良くも悪くも示している。

 

 

スペクトラムという概念は、概して人々を不安に陥れる要素があるように思う。

何が正しくて何が間違っているか、何が良くて何が悪いか、人は答えというものを求める生き物だ。

そして、スペクトラム概念はそういった答えを一瞬にして曖昧なものにして消し飛ばしてしまう。が、それが悪いこととも限らないんじゃないだろうか。

 

自閉症スペクトラム」という言葉は、社会の医療制度だけではなく、医学、心理学、精神分析学などの世界を大きく変えることになった。今までは見えなかったものを見えるようにするための、世界を見つめ直すレンズ。大きな思考転換だ。

もし国境にスペクトラム概念が持ち込まれたらどうなるだろう、それがいい方向に進もうが悪い方向に進もうが、世界が大きく変わるのは間違いない。

社会や医療に関わらず、そしてカテゴリーとスペクトラムに関わらず、身の回りでこういった思考転換ができるようになれば、今まで見えなかった新しいものが見えてくるんじゃなかろうか。

最近はそういったこと考える毎日です。

【個人的】ソニックシリーズボーカル曲ランキング

ソニックシリーズを印象付ける要素は様々ですが、なかでも楽曲のクオリティはソニックシリーズを語る上では外せません。今日は、ソニックの冒険を彩ってきた素晴らしい楽曲たちを、ここではボーカル曲に絞ってランキング形式で5つ紹介したいと思います。

 

 

 

 

5位

Dear My Friend

ソニックワールドアドベンチャーより

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いきなりバラードだ?貴様この野郎と思う方もいるでしょうが、実際このDear My Fiendはソニックシリーズでは考えられないほどエモーショナルでメッセージ性のある曲です。ソニックワールドアドベンチャーではEDにこの曲が流れますが、スタッフクレジットと共に映される相棒チップの写真も相まって、プレイヤーは泣かずにはいられません。実はソニックシリーズにはこの曲以外にもバラードが存在します。それぞれ素晴らしい楽曲なので一度聞いてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

4位

「Open Your Heart」

ソニックアドベンチャーより

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ソニックのボーカル曲と言えばこれっしょ!というファンも多い曲、Open Your Heart、ソニックアドベンチャーのテーマ曲です。ボーカル、演奏は今ではおなじみのCrush40、セガの作曲家である瀬上純さんもギターで参加しています。ソニックシリーズのボーカル曲と言えばロックな曲を想像する方が多いと思いますが、実はこの曲がソニックロック路線の始まりでもあったりします。実際Crush40はこの曲の為に結成されましたしね。ソニックボーカル曲を語る上では間違いなく外せない曲です。今では恐らく聴けないであろうゴリゴリのロックサウンドは必聴!

 

 

 

 

 

 

3位

「Endless Possibility

ソニックワールドアドベンチャーより

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またまたソニックワールドアドベンチャーから、Endless Possibilityです。

こちらはEDでも流れますが、ED曲というよりはテーマ曲です。直訳すると無限の可能性、かっこいいですね。PVでこの曲を聴いて心をガッシリつかまれた方も多いのでは?曲調も爽やかでどこまでも走り抜けていけそうな雰囲気です。ソニックワールドアドベンチャーは他のソニックシリーズとは少し異なり、昼にはいつもの爽快なソニックで、夜にはソニックがオオカミのように変身した姿、ウェアホッグになって冒険します。英語でのタイトルは「Sonic Unleashed」、Unleashedは解き放たれたという意味ですが、この曲の歌詞もタイトルに沿った内容になってます。自分のもう一つの可能性を開放するわけですね。ゲーム自体もとても面白いのでぜひ遊んでみてください!(ちなみにWii版はやめようね!!)

 

 

 

 

 

 

 

 

2位

「Knight of the Wind」

ソニックと暗黒の騎士より

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とってもかっこいいイントロから始まるこの曲、まさにソニック的なかっこよさを備えています。Crush40が演奏していますが、シャドウ・ザ・ヘッジホッグ以来、彼らがソニックシリーズのテーマ曲を担当するのは実に4年ぶりなんですね。そしてこの神曲、クラフォーおそるべし。ソニックが剣を使うというのも当時衝撃的でした。個人的にすきなのは2:50からのCメロ!ギターソロの入りがとにかく熱い!このくさいほどのかっこよさこそ、僕がソニックシリーズの曲を愛している理由です。もう一度こういう感じの曲、作ってくれませんかね~。

 

 

 

 

 

 

 

 

1位

「ESCAPE FROM THE CITY - Cash Cash RMX」

ソニックジェネレーションズより

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やっぱりな♂

というわけで1位はEscape from the cityです!しかし普通のバージョンではありません!リミックスです!PSO2で聴いたことある方も多いでしょう。

あぁん?なんで?という方も多いでしょうが、僕ははっきりいって原曲よりこっちのリミックスの方が初めて聴いた時のインパクトが大きかったです。別にインパクトだけで曲の良し悪しを決めているわけではありませんが、あの曲をここまでポップに落とし込んだCash Cashの力量にはただただ感動します。まさにリミックスのお手本と呼べるような素晴らしい出来です。ソニックジェネレーションズでは一つのステージに2つのActがありますが、こちらはクラシックソニックのActで流れるバージョンです、モダンソニックの方で流れるリミックスもとても素晴らしい完成度なのでぜひ聴いてみてください。

 

 

 

 

 

いかがでしたでしょうか。ここで紹介したもの以外にも、ソニックのボーカル曲には素晴らしい楽曲がいくつもあります。「His World」、「Sonic Boom」、「Reach for the Stars」などなど・・・紹介しきれません。みなさんのお気に入りもコメントで教えてくださると嬉しいです。このランキングでソニックの曲に興味が湧いたという方はぜひ自分のお気に入りを見つけて、そしてソニックシリーズを遊んでみてください、結局自分が遊んだシリーズの曲が一番好きだったりしますからね。(申し訳ないが最新作はNG)

また気が向いたら、今度はボーカル曲じゃない普通の楽曲でもランキングを作りたいなと思います。ではまた次回。

遅すぎだぜぇ

 

 

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やる気

最近、何をするにも肩が重い。歳かなと思ったけど別にそこまで歳とったわけでもない。

話は変わるが、心理学には「作業興奮」と呼ばれるものがあるらしい。何それ?と思う人もいるだろう。簡単に言えば、やる気を出す方法だ。

普通、私たちのやる気と行動のプロセスと言えば、大概がまずやる気を出して、そしてそのやる気を持続したまま行動に移す。つまり「やるき→行動」というのが私たちの想像するごく一般的なプロセスだ。しかし、この場合だと、いわゆる「やる気がおきない、しない人」は、最初のやる気がそもそも発生しないので、行動に移すことが出来ない。これは大抵の人が陥ったことがあるだろう。

そんな時に私たちを正しい方向へと導いてくれるのが「作業興奮」だ。

作業興奮はやる気より先に行動から始める。ここが一番大事な部分で、やる気と行動の順番が逆になる。しかし、そんなことをしては行動にやる気が伴わず、結果的に無意味な行動になるのでは?と思う人もいるだろう。心配無用。作業興奮の仕組みは、作業、つまり行動によって自らのやる気を発生させ、そのやる気によって行動が持続するというサイクルになっている。「行動→やるき→行動の持続」という流れだ。

この流れによって、最初にやる気を出さずとも、とりあえず行動さえ始めればあとは勝手にやる気も湧いてきて、最終的には目的も達成できるというわけだ。

便利〜〜〜〜。

 

 

 

 

 

でもちょっとまて。

 

 

 

 

 

やる気を発生させるために行動から始めるのは分かったが、その行動を始めるためのやる気はどうすればいいんだろうか、、、。

 

 

 

 

 

そもそもやる気やる気って、やる気って一体なんだ。

 

 

 

 

 

例えばやらなければいけない宿題があって、やる気があればやる、やる気がなければやらないのだとしたら、このやる気を僕たちはどうやって確認するんだ。誰にも確認できないじゃないか。この場合、僕たちのやる気とか呼ばれる抽象的なものが唯一確認できる方法があるのだとしたらそれはただ一つ、宿題をやった時、あるいはやらなかった時だけだ。だけど僕たちは宿題をやるやらないを、このやる気を頼りに決定しようとしているんだから、すっかり循環論法にハマってしまう。

 

結局、大事なのはやるかやらないかというただ一点のみで、やる気とか、気持ちとか、愛情とか、思いやりとかは、なんの基準にもならないただの理由付に過ぎず、行動によってのみ僕らは定義されるんじゃないだろうか。

 

 

 

秋の終わりには実存主義の本が読みたくなる。

 

 

 

 

 

最近こんな駄文しか書けない。

 

 

動物愛護の精神

最近全然更新できてないので久々に何か書きます。

 

 

動物愛護という言葉をご存知だろうか。

動物愛護という言葉は最近ではほとんどの人が知っている。だけどいまいちこの動物愛護の考え方を理解している人が少ないように感じる。最近では少々過激な人間たちが間違った考え方から動物愛護の運動をしているのも相まって、一般の間では動物愛護の思想は少々危険なのではなんてことも言われている。

しかしよく考えてみれば、動物愛護に反対する人間なんてほとんど見たことがない。誰だって動物を虐待したりみだりに殺すことは間違いであることを理解しているはずである。

やはり間違った考え方のせいで、動物愛護そのものが間違っているみたいな見方をされている感が否めない。そもそも動物愛護とはどのような考え方だろうか。

 

動物愛護の主体は誰か

動物愛護の言葉としてかなりの頻度で使われるのは主に「動物がかわいそう」「動物の気持ちを考えるべき」などだろうか。

単刀直入に言うと、前者は半分正解で、後者は間違いだ。

news.livedoor.com

少々古い記事だが、これは動物愛護の基本的な考え方を最も端的に表している。

小学校に侵入したクマを猟師が射殺し、それに対して多くのクレームが寄せられたというニュース。クマを撃ち殺すのが正しかったかというと、これに疑問を唱える人はあまりいないんじゃないかと思う。射殺するのをためらって、子供に被害が出ては元も子もない。

しかし注目するべきはそこではなく、むしろクレームの内容の方だ。

「子供たちの前で射殺という選択をとることは本当に正しかったのか」
「射殺することが正しいとは教育しないで欲しい」

クマを殺すことによって、子供たちに何か精神的な影響が出たり、倫理教育が間違った方向に行ってしまわないかという懸念がされている。これこそが動物愛護精神のエッセンスたるところだ。

なぜ動物をみだりに殺したり虐待してはいけないのか、その答えは、決して動物が可哀想だからという理由ではなく、その可哀想な動物を見た人間が、精神的な不利益を被ったり道徳教育が歪められたりするからだ。

結局のところ、動物愛護というのはやはり人間を主体において、人間のために存在しているということを忘れてはいけない。「動物のために」というような考え方では断じてない。

似たような考え方に、環境保護の精神があるが、これも言わずもがな人間を主体にしている、最近巷で話題になったうなぎ絶滅に関する議論も、大事なのはうなぎが絶滅することで僕らの食卓からうなぎがなくなったり、何かしら自然界に悪影響を及ぼして、それがまわりまわって最終的に人間に被害を及ぼすのではないかというところである。食卓からうなぎがなくなることに反対する人間は多くいただろうが、うなぎが可哀想だからという理由で絶滅反対を訴えていた人はひとんどいないだろう。

だから、動物愛護を考えるときには常に人間をピラミッドの一番上において考えなければならない、動物の気持ちなど人間がわかるはずもない。理解できるなら理解してみろ。動物愛護での間違った考えというのは概して「動物」の側を主体に置いてしまっている。そういった考えの人間はペットを可愛がったりしていることが多いのだが、ペット側からすれば飼われること自体が既に不快なんじゃないだろうか。そういう手合いは動物を主体に置いてる割にはまったく動物のことなど考えてはいない気がする。

 

動物愛護批判

このように動物愛護には間違った考え方もあり、そのような間違った考え方をしている人が動物愛護を標榜することによって、ネットなどでは動物愛護=やべー思想のように扱われている。

しかし一番厄介なのはその間違った考え方を批判しようとするあまり動物愛護そのものを批判しようとしてしまう人間だろう。

例えば上の記事で挙げたようなクレームに対しクレームを入れるというのがあるが、別に上のクレームが見当違いなクレームを入れているというわけではない。むしろしっかりと動物愛護の理念を理解したうえで、子供に悪影響がないかというクレームを入れている訳である。クレームを入れるのが正しいかどうかは別として、別に間違ったことは言っていない。これに対して偽善者だなんだというのは少々無理があるし、逆にお門違いな批判をすることで自分自身が動物愛護を理解していないのを晒してしまうことになる。

このツイートは分かりやすい。 

批判する側も、そしてそれを批判する側も間違っている。

イルカショーを批判するのであれば、不特定多数の人間が不利益を被ったり子供の教育に弊害が起きるという理由でなければならない。しかし、実際のところイルカショーを見て倫理観が曲がったり実際に被害を受ける人はいないだろう。ただ「イルカが可哀想」という理由だけで批判するのはお門違いもいいところだ。そしてそれに対するほんこんの意見もおかしい。

「どの動物で区切んねん、人間の差別やないか!」というのはそもそも動物愛護がそういう考え方の上で成り立っているのだからここを批判するのは間違っている。動物愛護が適応される動物と適応されない動物の違いは、「その動物がみだりに殺されたり虐待されていることが何かしら人間に不利益を与えているかどうか」で判断される。動物愛護の思想は差別してナンボだ。なにせ人間第一の考え方なのだから。

 

断っておくが、僕は動物愛護に基本的には賛成しているし、実際に動物を虐待したりするのは許されないことだと思っている。しかし、上にも挙げたように、世間での動物愛護の議論というのは、そもそも動物愛護がどういう理念を持っているのか、どういう考え方なのかは置いてけぼりで全く理解されないまま議論が進んでいるため、要旨があっちこっちに行ってまともな話にならないことが多い。その部分を放置して話を始めるというのは、言葉の定義も碌にせずに議論をするのと同義だ。

菜食主義や環境問題の話題についても言えることだが、議論において一番大事な本筋を見失うというのは、議論を何も生み出さない無駄なものにしてしまう。

動物愛護問題は、そういったことを考えるいいトピックなんじゃないだろうか。

 

 

 

 

 

Youtubeでトカゲの餌やり動画見てたらコメント欄が香ばしかったので。

旅行行きてえ

www.mapcrunch.com

 

Googleマップストリートビューで世界中のランダムな場所にジャンプできるサイト。

左上のオプションから行きたい国を設定したり、ジャンプする場所を都市部に限定したりすることも可能。

いい場所に出会えたらその場でスクリーンショットを撮ってSNSにも投稿できる。もちろんストリートビューなのでその場から歩き出すこともできる(一部不可)。色んな景色が見られて世界中を旅してる気分になれる。

 

最近こんな感じのサイトばっかり見てる気がする・・・。旅してえ

いつかここに旅行の記録とか載せれたら最高ですね。

 

 

 

旅のお供にこちらもどうぞ↓

 

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

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