れっくすのつぶやき

マイペースに色んなことを書いてきます

学問に触れるということ

久々に面白い記事を見つけたので。

t.co

精神障害自閉症に苦しむ人たちにとっての希望」と名高いrei氏と呼ばれるツイッタラhttps://twitter.com/rei10830349に対して、医学部の学生がアカデミックな観点からツイートに突っ込んでいくという記事。自身のツイートに多数の論文を引用していながら、実はその論文を本人は読んでいないのではないかということを徹底的に追究している。匿名で、しかも学生でありながらしっかりとした医学的検証と皮肉たっぷりのフランクな文体によって、読んでて非常に面白く痛快である。

とまあ、そんな感じの記事なのだが本当に重要なのは本文ではなく最後の締めくくりの文だろう。

そりゃインターネット論客みたいな、能力が及ばなくてアカデミアにも進めずかといって地域根付くこともできなかったしょっぺえしょっぺえ小物を相手にするのは常識を備えたまともな大人がやることじゃないかもしれないけどさ、時代は少しずつしかし確実に変わりつつあって、インターネットに居場所を持つ人はどんどん増えてきてるわけ。そういう状況下で、いい加減なことを無責任に言い散らかすような存在無視しちゃいけなくなってきてるんだよ。自分医者として働いてて、患者が「僕チー牛顔なんで〜、モテないんすよね〜、やっぱ先進国の女はチー牛顔を求めてないし〜」なんて言ってきた場合、どっから説明したらいいか頭抱えちゃうでしょ?増田キレすぎワロタとか草生やしたり冷笑する暇あったらその廃用症の脳細胞に鞭打ってちょっとくらいは想像してくださいよ。こんだけ俺のパーソナリティを開示してるんだからさ。今のうちに意味不明な言説の芽は叩き潰す。そういう感じのモチベーションで書きました。ここまで言えばわかってくれますか?今のインターネットの、目も当てられないくらいの、情報汚染リテラシーの欠如、質の悪いコンテンツの氾濫、尊き価値創造営為へのリスペクトを失った盲目消費者絶望ですよ、絶望

現代のインターネットの情報汚染や疑似科学などの氾濫に対して警鐘を鳴らしており、数万人ものフォロワーを抱えながら適当な言説をまき散らす一部のツイッタラーに対しての憂いや絶望がつらつらと書き連ねられている。しかし、このような意味不明な論客がいるということは、それを消費する人間がいるということでもある。

結論からすれば、ツイッタラーもそれを消費する側も、まあまともに学問というものに触れたことが無いのだろう。

 

高校までの義務教育と、大学での高等教育というのは学問に対する考え方がまるっきり異なる。

小中高までの学問の目的とは、問題を解くということに絞られる。与えられた問題に、それまで習った知識を当てはめていき、答えを導き出す。しかしここでの問題と答えは、言うなればQuizとAnswerの関係でしかない。問題には全て答えが存在しており、その答えも教師が教えてくれる。ゆえに、義務教育での勉強というのはひたすらに答えを求めるものだ。しかし、大学となってくるとそうはいかない。

大学では答えよりも問題を発見することに焦点が置かれる。というよりも、学問において、問いを発見することと問いに答えを出すことでは、圧倒的に前者の方が”偉い”。フェルマーの最終定理の「フェルマー」も、問いを発見した人物だ。問いに答えを与えたのはフェルマーではなくアンドリュー・ワイルズという人物であって、フェルマーではない。そもそも問いが無ければ答など出ようもない。

さらに、大学で学ぶ学問は、ほとんどの場合、答えというものが本質的には存在しない問題が多い。ここでの問題とはQuizではなくProblemやIssueの方だ。誰かが答えを教えてくれてそれを暗記するのではなく、自身の持つ知識体系をフル活用して自分なりの答えを論理的に導いてゆく。そういうものが大学で学ぶ学問だ。高校までであれば暗記力さえあれば先生に褒められただろうが、高等教育において知識を覚えることなどは大前提、できて当たり前のことであり、そこからどう問いを発見するかの方がむしろ重要だ。小中高で優等生とされていた生徒というのは、ほとんどがここで躓く。それまで真面目に机の前でじっと暗記をしてきたはずが、突然答えのない知の大海へと放り込まれる。じっと黙って先生の話を聞くだけでは通用しなくなってくるのだ。

別に大学に行っていない人間がバカであると言っている訳ではない。こういうことは大学に入ってから教わるものではなく、しっかりと高校生の時に気づくべきだ。大学に入ってからこんなことを教わるようでは遅すぎる、こんなことに気づいていない人間が大学に入っても何の意味もない。貴重な4年間をどぶに捨てるだけだ。

 

要するに、こういう人間は、答えが無いということを極端に恐れているに過ぎない。そのうえこのような人間は本質的に勉強嫌いである。自身の持っている知識の枠組みの中に閉じこもり、外の世界に興味を示すのではなく、自分の知っている世界の中でしか生きられない。ゆえに、学問の楽しさを1ミリも味わうことなく、勉強とはすべて暗記であるなどと平気で思い込んでいる。そりゃあそんな勉強が楽しいはずがない。哲学の試験で教授に答えをきいちゃうような愚かな人間だ。

そして皮肉なことに、学問に対してそういった不誠実な態度をとる人間ほど、プライドが高く無知という言葉に最も敏感に反応してしまう。学歴で人を測り、東大やハーバード、大学教授といった肩書や権威にこれでもかとすがり、ただのクイズが得意な大学生を「神の頭脳」「天才」などと言ってもてはやす。

そして行き着く先は、何の素性も知れないツイッタラーの適当な言説を、ただ横に無関係な論文が貼ってあるだけでそれが真理だと簡単に信じ込んでしまう。そういう人間になってしまう。そうなってしまってはもはや手遅れ、答えの真実性などどうでもよく、ただ自分を安心させてくれる答えを妄信するだけだ。恐ろしいことこの上ない。

残念ながら、インターネットにはそのような人間が老若男女大勢いる。否定したくもなるが、先に挙げたアカウントのフォロワー数やリツイート数がその証左他ならない。こういうツイートをリツイートするのは自分がバカだと言ってしまっているようなものだ。

では一体どうすればいいのだろうか。

やはり、最終的には自分自身が学問に、それがほんの一端であっても、触れてみるしかないと思う。しかし学問に触れるというのは、何も難しそうな活字の本を訝しげな表情で読むことではない。そんなことをして知識を持った気になっても、どうせ1か月程度で忘れてしまうのが関の山だ。

 

 

真の意味で学問に触れるというのは、自身の中にばらばらに存在する諸知識を体系化し、その知識によって身の回りから問いを発見し、仮説を立て、検証するという一連の流れを経験することだ。

そしてそれに必要なのは分厚い本などではなく、何よりも、今持っている知識だけに固執せず、答えのない未知の領域へと恐れずに踏み出してゆく姿勢ではなかろうか。学問においては、無知は罪ではない。

 

 

 

よく勘違いしている人が多いが、別に知識が無かったり、頭の回転が悪かったり教養がないからと言って、その人が人間的に劣っているということは何一つない。しかしインターネットを見渡せば、どこか「教養のない人間は無価値だ」というような空気が充満しているように見えてならない。そういった空気が、このような歪んだアカデミズムを生む一因となっている気がする。

コロナによって様々な言説が流れる中で、上の記事はそういったことを考えるいいきっかけだったと思う。

 

 

 

 

要するに勉強しろということです。

子供と大人

最近すっかり寒くなってきましたね。ずっとポケモンやってたのでブログの更新が止まっていました、Rexです。

突然ですが皆さん、子供と大人の違いってなんだと思いますか。

まぁ、だいたいこう言う質問をすると皆、「大人になりたがってるのが子供、子供に戻りたがってるのが大人」とか、「自分以外の他者(家族や恋人)が人生の中心になったら大人」とか、そんな感じの答えが返ってきます。しかし総じて言えるのは、どうやらみなさん「大人」というものは体の大きさや年齢によって決定されるものではないと考えているようです。かなり面白いですね。その人の価値観や人生経験を垣間見れるいい質問だと僕は思います。というわけで今日の本題に入っていこうと思います。

 

 

 

 

 

 

サリーアン課題と呼ばれる心理学のテストがある。このテストの対象は3〜6才までの子供で、誤信念課題とも呼ばれている。テストの内容はある一つの問題に解答するだけという非常にシンプルなものだ。その問題の内容は以下の通り。

 

「ある一つの部屋にサリーとアンという二人の女の子がいる。そして部屋にはサリーのバスケットとアンの箱が置かれている。さて、サリーは自分の持っているビー玉をバスケットに入れて、そのあと部屋から出て行った。そしてその間に、アンが、サリーのバスケットに入っているビー玉を取り出し、自分の箱の中に入れてしまった。その後、部屋に戻ってきたサリーは、自分のビー玉を取り出そうとする。この時、サリーは自分のバスケットかアンの箱、どちらを開けるだろうか。」

 

サリーはどちらを開けるだろうか。普通の人間であれば(且つ3才までの子供でなければ)、当然、「サリーは自分のバスケットを開ける」と答えるだろう。ではそれは何故だろうか。それは僕たちが「サリーはビー玉がバスケットに入っていると思っている」ことを理解しているからだ。このように、「他者の視点」や「他者の考え」について考えられることを、心理学では心の理論と呼ぶ。このテストでは、5才や6才の子供が「サリーのバスケット」と答えたのに対し、3才などのまだ心の理論を獲得していない、言い換えれば心の発達において乳児期の段階である自己中心性を脱していない子供たちは、「アンの箱」と解答した。つまり、まだ自分と他人の知っていることや考えていることが違うということを認識できないのである。このサリーアン課題において言えば、「自分と他人の考えは異なる」ことを理解できることが、赤ちゃんと子供の違いだと言えるのではなかろうか。

 

 

 

 

 

では、子供と大人はどうだろう。

 

 

 

 

 

イギリスの小説家、R.L.スティーブンソンの短編の中に、『瓶の悪魔』(原題 The Bottle Imp)と呼ばれる話がある。その話の中にはもちろん悪魔が登場するわけだが、この悪魔は幸運なことに瓶に封印されており、しかもなんとその瓶を手にしたものの願いをなんでも叶えてくれるというなんとも親切な悪魔である。しかし親切と言えども悪魔は悪魔。この夢のような瓶にはいくつかのルールがある。

 

1.この瓶を所有したまま死ぬと、地獄へと落ち永遠に苦しむことになる。

2.しかし死ぬ前に誰かに瓶を売ることによって地獄行きを回避できる。

3.誰かにこの瓶を売るときは自分が瓶を買ったときの値段より低い価格で売らなければならない。同じ価格、あるいはより高い価格で売ろうとすると地獄へと落ちる。

 

かなりヘンテコなルールだが、特に興味深いのは3つ目の、「自分が買った時より低い価格で売らなければならない」のところだろう。このルールによって、この物語は一味違った面白さを醸し出している。

 

では、一旦この物語は置いといて、次の問題を考えてみてほしい。

 

 

 

「先ほどの瓶のルールに基づいて考えた場合、あなたがこの瓶を他の人から買い取る際に、地獄へと落ちることなく買えると言える妥当な値段はいくらか。また、それを論理的に確かめろ。」

 

 

あなたはいくらでこの瓶を買うのが妥当だろうか。確かに、10万円や5万円で買っても、1万円で売れば地獄行きは回避出来る。直感的に考えれば、5万が10万が妥当だろうか。

しかし、ちょっと待ってほしい。本当にそれは「地獄へ落ちることなく買える」と言えるだろうか?問題文にもある通り、もう少し論理的に確かめてみよう。

この問題を考えるには、まず「明らかに瓶を買うのが妥当ではない状況」を考えてみるのが良さそうだ。

例えば、この瓶が1円で売られていた場合、あなたは買うだろうか?そう、決して買わないはずだ。この瓶のルールでは「自分の買った値段より低い値段で売らなければならない」のだから、1円で買ってしまえばそれ以下の値段で売ることは不可能、つまり地獄行きが確定してしまう。というわけで、1円で買うのは妥当とは言えない。

では、2円ではどうだろうか。もちろん、これも妥当ではない。もし2円で買った場合、あなたはこれを1円で売らなければならない。しかし、1円だと先ほどのように妥当ではないので誰も瓶を買ってはくれない。結果あなたは地獄行き確定。

さて、察しのいい方ならもうお気づきだろうが、実はこの瓶を買うのに妥当な値段というのは存在しない。どのような値段であっても、3円だろうと4円だろうと、10万円だろうと、その時点であなたの地獄行きは確定しているわけである。

これは高校数学の数学的帰納法によって簡単に証明することができる。

まず、この値段は妥当ではない、という命題をP、任意の値段をnとしよう。

1.まず、命題P(この値段は妥当ではない)は1円で成り立つ。

2.任意の値段nが妥当ではない(と仮定した)とき、n +1円も妥当ではない。

3. 1、2により、命題Pが任意の値段nすべてに対して妥当ではないことが証明できる。

 

よってこの問題の答えは、「この瓶を地獄へ落ちず買える値段はない。また、それは数学的帰納法によって証明可能である。」

 

 

・・・

 

 

 

問題を論理的に確かめることによって、直感による誤謬を防ぐことができた。しかし、僕たちは直感において、この瓶を安全に買える値段がないということをイマイチ理解できない。それどころか、この瓶を買うのに妥当な値段があるということを無意識に確信しているかもしれない。

 

論理的な正しさというのは度々僕たちの生活実感からかけ離れたところにある。論理的に正しいとされていても、どうしても納得できないという問題が、この世界にはあふれている。有名なモンティホール問題や論理学の真理値計算もその類だ。

 

そして、人によってはこの実感と論理のズレに対して狼狽したり、インチキだと騒ぎ立てたりするだろう。

 

そして僕は、まさにこの「論理的な正しさに対してどのような態度を持っているのか」が、子供と大人を明確に分ける部分ではないかと思っている。

 

つい最近、2人の人間がこの「論理的な正しさに対する真摯さ」の無さ故に、多くの人々に袋叩きにされるサマを僕は見てきた。

一人は環境保護活動家であるグレタ・トゥーンベリさん。彼女の国連での演説は、多くの人間にとって非難の的となった。彼女の演説の内容は、まあ短く言い表すと、「お前たち大人が私たち子供の未来を奪っている。」という論旨の一点張りである。何か具体的なデータや改善案を提示するわけではなく、論理的にもおかしい部分が散見される。大人たちの責任を問い詰めることによって環境保護を訴えるというのは、確かにあまり喜ばしいものではない。しかし、問題は演説内容そのものではない。むしろ、ただ演説内容が酷いだけならば、ここまで彼女が責め立てられることは無かっただろう。

問題は彼女の演説に向けられた批判に対する、彼女の認識の誤謬にある。

彼女の演説への批判はそのほとんどが、あきらかに根拠やデータが薄いその主張の妥当性に関する批判である。しかし、彼女はこの批判を、「子供が国連で演説することに対する意地汚い大人達の誹謗中傷」と解釈してしまう。結果、さらに炎上するという事態に陥ってしまった。自らの勝手な思い込みによる客観的、論理的な判断の放棄ほかならない。既に多くの人間にボコボコに批判された彼女は、おそらくこれからも自分の中の思い込みの世界だけで生きるのだろう。

二人目はつい最近Twitterでも話題になった「なでしこ寿司」の件だ。これも先ほどの例同様、自らの間違い、非常に不衛生な調理環境、に対する批判を、「女性だから批判されている」という間違った解釈をすることによって、粗探しだの、女性差別だのと反論してしまった。グレタさんは年齢的にも子供だと言えるだろうが、こちらの場合より深刻だ。いい年した人間だが、僕から言わせてみればまだ「子供」である。自分の感覚から外れた正しさに対して、まったくもって不誠実すぎる。

 

 

何も僕は直感を捨てろと言ったり、全てを論理式で考えろとは言っていない。実際、直感も少しばかりは論理的正しさによって裏付けされていると僕は考えているし、論理があらゆる問題を解決するとも思っていない。

ただ、そういった論理的、客観的正しさに対して、僕たちは納得せずとも理解することは可能なのだ。どれだけ自分が納得できなくても、1+1=2である。

 

一歩立ち止まって、自分の考えに対して、本当にそれは正しいのか、今一度考えることのできる姿勢、柔軟さ。僕の出会ってきた「大人」達は、そういった賢さを備えている人たちだった。そういったことを、数学や論理学から取り出せる人間を、現在の教育は育てることができているだろうか。

 

人は勝手に大人にはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

要するにポケモンバトルでの読みすぎは危険ということです。

デスストランディングについて

DEATH STRANDING(デス・ストランディング)というゲームを買った。

 巷で話題のこのゲームを遊んだ感想を少しだけだが書いてみようと思う。ちなみにまだクリアしていない。

 

 とその前にまず、このゲームの現在の評価について書こう。このゲームが発売してからというもの、色々な人、メディアのレビューや感想を見てきた。全体としては「賛否両論」、「絶賛も酷評も少ない」という感じに落ち着いているなと感じる(ファミ通との癒着問題で若干炎上の兆しが見えるがそれについては言及しないことにする。)。

 僕はこういった賛否の状態を「深夜アニメ劇場版現象」と呼んでいる。どうやらこのゲームのディレクターは最近大手ゲーム会社から独立した超有能と名高い小島監督らしい。なぜ監督と呼ばれているのかは謎であるが、この小島監督には所謂信者もアンチも尋常ではない数がいる。なぜそんなに信者とアンチが多いのかと言うと、この監督の強い作家性が一つの要因であることは言うまでもない。カットシーンや俳優へのこだわり、作品におけるテーマ性、ゲームシステムの独自性など、挙げればきりがないが、彼が今の日本を代表するゲームクリエイターであることは間違いない。

 それほど作家性の強いゲームクリエイターが大手から独立して、真に自分の作りたいゲームを作るのだから、きっととんでもないゲームができるに違いない。と、発表直後から小島監督のファン達は大いに盛り上がった。公式のマーケティングもそれを後押しした。ストーリーについてほとんど何も語られないトレーラー、安部公房の引用、「全く新しいゲーム体験」の宣言、ファンは絶頂しただろう。これだ、これこそが、我々の求めた小島監督である、と。

 しかしその一方で、ファンではないゲーマー達が若干の不審を抱いていたのは当然のことだろう。ゲームの目的も、あらすじも、そしてそのプレイフィールも分からない。分かるのはなんか凄い俳優が起用されていることと、なんか凄いゲームを作るらしいということだけだ。そんなファンと一般ゲーマー層のテンションの差が、「深夜アニメ劇場版現象」を生み出した。

 

 「深夜アニメ劇場版現象」とは、ファンと一般層が互いにその作品のターゲット層についてのリテラシーを共有することによって起きる。言い換えるならば、「その作品がファン向けに作られているという前提を共有している」状態である。深夜アニメが映画化するとこのような現象が起きがちで、レビューの質の低下を招く要因になる。

 ファンは、その作品が自分たち向けに作られていることを分かっているので、自分たちがその作品のファンであることを自覚した上で一般層の視線に立とうとする。故に、手放しでその作品を褒めたり、絶賛したりという感想が必然的に少なくなる。

 対して一般層も、その作品が自分たちに最適化されていないことを理解している(さらに適当なことを言うとファンに袋叩きにあう可能性もある)ので、あからさまな批判やクソゲーという判定を下しにくい。

 以上の二つが合わさるとどういったことが起こるか。結果として、どちらも極論を言いづらくなる雰囲気がコミュニティー内で醸成されていき、絶賛も酷評もない「無難」な感想たちになる。これが、「深夜アニメ劇場版現象」である。もちろんゲーム自体かなり好き嫌いが分かれる感じのものではあるが、普段レビューを見てソフトを買うような純ジャパニーズ気質を備えた僕のような人種には些か難しい問題である。というわけで、今回は実際に遊んで自分でこのゲームの感想をつけてみようという訳である。

 では、自分はどう感じたのか。いよいよ本題に入っていこう。

 

 

 

 一々ゲームシステムを説明するのもダルいのでまずは読者が知っている前提で「ストランドシステム」についての感想から書くとしよう。

 オンラインで、他のプレイヤーにやんわりと関わるシステムは、デスストランディング以前にも登場していた。特に、Co-opや対人戦ではなく、他のプレイヤーに自分の痕跡を残したり建築物を共有したりして干渉するタイプのシステムは「ダークソウル」シリーズや「トゥモローチルドレン」などのゲームで既に登場している(僕のフレンドのTくんはこういうシステムが大好物で、トゥモローチルドレンのサービス終了に悲しんでいたのでデスストランディングは大いに楽しんでいるに違いない)。確かにまだ主流のゲームシステムではないし、こういうシステムのオンラインゲームはまだ数少ないが、別に全く新しいという訳でもない。ただ、ゲームの進行度に合わせて同期率を調整したり、プレイヤーの暴走によってゲームが破綻したりすることがないように設計してあるので、その辺の開発努力は素直に称賛すべきだろう(ちなみにトゥモローチルドレンはこの辺が壊滅的にダメでカオスになっていた)。このシステム自体が面白いかどうかと言われると、僕自身特別面白いとは感じないが、人の建造物を見つけたり自分の建造物にいいねが着くと若干嬉しいので、ゲームは一人でやりたいけど寂しいのはやだなという人にはいいかもしれない。あと、多くのプレイヤーが通った道がしっかり獣道になっていたのは感動した。

 次にゲームプレイ全体の流れだが、まあ早い話が「オープンワールドのおつかい要素を究極まで濃縮したようなゲーム」である。プレイヤーは荷物を持って配達先まで届ける。そこでまた新しい荷物をもらって次の配達先へ…という感じの流れが延々と続く。おつかいミッションが嫌いでもない僕はまあそれなりに楽しめているのかもしれないが、おつかいとかやってらんねえよという人には絶対に面白くないだろう。道中で戦闘やステルスアクションもあるにはあるが、これも大して面白くない。ファストトラベルもなく乗り物も微妙な性能である。とにかく全てがだだっ広いフィールドで歩くのが好きな変態向けに調整されている。

 そんなゲームの何が面白いんだよと言いたくなるが、実はここがミソである。このゲーム、ただおつかいするだけと言ってもそのおつかいがかなり難しい。敵は環境そのものであり、険しい岩山や河川、廃墟や雪山などの厳しい環境を踏破することにゲームプレイの焦点を置いている。安部公房を引用して説明していた「なわ」のゲームとは、ズバリこういうことだったのだ!

 しかしこのシステムもさほど珍しいものではない。環境にインタラクションして道を切り開くというのはゼルダの伝説Botwという偉大な先輩がいるし、非殺傷のアドベンチャーゲームなど無数に存在する。そして何よりもこのシステム、僕に言わせれば、成功しているとは言い難いような気がする。

 環境を敵と見立てて遊ぶゲームというのはいいアイデアだが、その環境を乗り越える手段が少なすぎる。ゼルダであれば、プレイヤーからモノへのインタラクションと同時に、モノからモノへのインタラクションが加わることでプレイヤーの想像力を何倍にも掻き立てるようなゲームデザインが成されていたが、デスストランディングにはそういった気配はない。基本的にどんな地形も梯子かロープか橋を建設すれば乗り越えられる。それがダメならそもそもそこは通れないように設計されているので、あまり乗り切った感がない。目的地への経路は無限大だが、その方法は数種類しかない。かといって、ガチガチなシミュレーションゲームでもない。サムは超人なので歩いても疲労しない(するにはするがモンエナを飲めば回復する)し、割とゴツゴツの岩肌でも難なく走り抜けてゆく。バイクの挙動もおかしいし、荷物をエグいぐらい積んでいたりよっぽど下手じゃない限りコケはしない。環境を他のプレイヤーと繋がりながら乗り越えていくのがゲームのコンセプトであるはずなのに、最も自分の行く手で障害となるのはBTやミュールといった環境以外の敵キャラである。まだゲームの序盤なのでこれが全てではないことは理解しているが、それにしてもこれがずっと続くとは考えたくない。

 これらに加えて、UIの不親切さ、あまりにも多すぎるカットシーンの冗長さ、ゲーム内用語の解説をほとんどドキュメント(テキスト)にしている部分などは、かなり一般ゲーマーとしては辛いだろうなと思う。

 ストーリーについてはまだクリアしてないので分からないが、今のところその全容は見えてこない。これから凄くなるかもしれないので期待している。小島監督のいわゆる衒学的な(これは僕が勝手にそう呼んでいる)セリフ回しや小ネタを詰め込むところは健在で、かなり面白い。最新のゲームエンジンで描画された北欧風の風景もとても美しい。

結局どこが新しいゲーム体験なのかは分からないが、上記の「環境とインタラクションするゲームシステム」と「やんわり繋がるマルチプレイ」を合わせたのは、世界で初めてなのではないだろうか。

 

というのが今の僕の感想である。

ただ結局自分でやってみて面白いか面白くないかを決めないといけないゲームであることは間違いないし、そういう流れを作ることこそがこのゲームのマーケティング戦略なのかもしれない。

 

またクリアしたら書くかもしれないし書かないかもしれない。

 

 

倫理的議論において陥りがちな二つの誤謬

倫理的議論について

 

人間、生きていればいつかは倫理的な問題についての議論に巻き込まれることがあるだろう。実際、SNSではほぼ毎日のように倫理についての議論がなされている。

しかし、その全てが正しく議論を成功させているとは言い難い。もちろん世間話のような姿勢で臨む議論というのは概して成功しないが、一見大真面目な顔をして議論をしているように見えても、まともな意見をしている人というのは案外少ない。そこで今回は、なぜ倫理的議論が正しく行われないかについて、二つの大きな誤謬を指摘してみようと思う。いくら専門的な倫理学を学んでいないとしても、次にあげる二つの”間違い”は、倫理において非常に大事な考え方なので、参考にしてもらいたい。

 

倫理的議論における誤謬その1

「極端な科学主義」

極端な科学主義はときに倫理議論を破綻させる。さて、ここでは次の二つの主張について、その主張が倫理的に妥当であるかどうかについて考えてみよう。

 

主張1

「最近の遺伝子研究によって、ある特定の遺伝子を持つグループは他のグループに比べて遺伝子的に劣等であるという説がある。ゆえに、これらのグループは人類の将来の為に速やかに排除されるべきである。」

 

主張2

「今日の研究では、男女の性別における学歴やIQの差について、その要因は脳の構造などによる先天的なものではなく、むしろ生まれた後の社会の教育環境のほうにあるということが証明されている。よって、男性も女性も学歴やIQの差によって差別されるべきではない。」

 

 

上の二つの主張において、どちらの主張が妥当で、どちらの主張が妥当ではないだろう。あなた自身で一度考えてみて欲しい。

 

 

 

 

 

答えは

どちらも妥当ではない。

 

実はこの二つは一見正反対のことを言っているように見えてどちらも同じような考え(前提)を持っている。

まず主張1、これは典型的な差別主義者の主張。遺伝子的に劣等である人間がいたとして、そのような人間はすぐさま排除されるべきだという主張は倫理的議論において真っ先に否定される。ナチス・ドイツの優性学をはじめとした人類の負の歴史をそのままの形で主張にすると大体こんな感じになる。

次に主張2。実は、これも差別主義的な考えである。「え?どこが?むしろ差別反対してるじゃん!」という意見がありそうだが、問題はその主張の内容ではなく、主張の論理的帰結の仕方にある。

今回の二つの主張では、どちらも帰結を導く文が入っている(ゆえに、よって、など)。

これはAだからB、BだからCのように、理由と結論を結び付ける役割がある。

この主張2の言いたいことは要するに「男女の知能の差は後天的”だから”差別してはいけない」ということである。確かに、今現在の科学では、男女の知能差が先天的なものであるという決定的なエビデンスは無いだろう。主張1のような劣等的な遺伝子というのも存在しないし、そもそもそういったものを研究すること自体が科学者の中では批判されたり禁止されている。

 

 

では、もしそれが「証明」されたとしたらどうだろう。

 

 

先ほど、上の二つの主張は同じ考え(前提)を持っていると書いたが、この仮定によって、この二つの主張の前提が浮き彫りになってくる。

この二つの主張はどちらも

「科学的に証明されたことであれば、それを根拠に差別してもよい」

という前提を共有している。

 

これが、極端な科学主義、科学万能主義の危うさである。科学は事実以外のものを提示しない。科学は科学以外の範疇では何の指標や正しさも担保しないのである。男女間における先天的な知能の差が証明されていないという「事実」も、劣等遺伝子なるものが存在しないという「事実」も、どちらもただの「事実」であって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。どちらの主張も、ナチス・ドイツの負の歴史から何も学んではいない。何の価値もない主張である。

真に妥当な主張というのは、科学と倫理とを切り離すことによってはじめてなされる。

正しい議論において、科学的事実は何ら倫理的結論を導きはしない。

 

 

 

 

倫理的議論における誤謬その2

自然主義的誤謬」

実はこちらも先ほどの誤謬と似ている。しかしこちらは科学的なもの以外も対象に含める。詳しく説明していこう。この自然主義的誤謬は最近では反出生主義(子供は作るべきでないという主張)に対する議論でしばしば起こる。例として、二つの自然主義的誤謬を挙げてみよう。

 

A「子供を作ることは善いことである。何故なら、それは人類が生物だからであり、子供を作ることは本能であり、人類としての本懐であるからだ。」

 

B「これまで、生物の中では弱い種は淘汰され強い種だけが生き残ってきた。それはとても自然なことである。ゆえに、現在の自然において動物が人間の手によって絶滅したとしても、それはある生物が他の生物を淘汰したというだけのことであり、むしろ善いことである。」

 

どちらの主張も自然主義的誤謬の例だ。生物的である、自然なことであるという性質が倫理的な善し悪しとイコールで結ばれている。これは反出生主義や自然保護における典型的な反論でしばしば見かけられるが、正しい倫理的議論においては妥当性を著しく欠いている。

 

そもそもこの自然主義的誤謬はG.Eムーアによって初めて定義された言葉だ。そして、ムーアの用法に従うならば、この言葉は何も自然であるということに限定されない。

ムーアは、「善い」とは何によって定義されるのかという問題からスタートさせている。「善い」とはいったいどういうことだろうか。自然であることが「善い」のか?科学的であることが「善い」のか?ムーアによれば、「善い」ということは他のどのような性質によっても定義されない。どのような性質も、道徳的価値基準を持ってはいないのである。

 

 

 

 

議論はディベートではない。

 

この二つの誤謬は、倫理的議論を破綻させる。なぜなら、もしこの二つの考えを持って議論に臨むのであれば、議論は終了してしまうからだ。議論というのは、討論(ディベート)とは決定的に異なる。議論において成功とは、様々な意見を出し合い、それを自身の中で吸収し、考えを深めることである。議論を終了させようとする人間は、そもそも議論に向いていない。自分の考えを他の人に認めさせるというのは、議論ではなく討論である。上で挙げた二つの誤謬を犯している人間というのは、そもそもが「議論は勝ち負けが存在する」という誤謬を犯していることが多い。暗黙の前提に気づき、他者の主張を理解して初めて、倫理というものは語られる。上で挙げた二つももちろん大事だが、最も大事なのはそういった根本的な姿勢の方にある気がする。

 

 

似たような記事をまた近いうちに投稿すると思うのでお楽しみに。

趣味と教養について 後編

 

 

 

教養とは何だろうか。

 

 

 

皆さんは教養というものをどういう風にお考えだろうか。

 

最近、やたらと「教養」という言葉が連呼されている気がする。帰り道にふらりと書店に寄ることがあるが、まあ右を見ても左を見ても教養教養と、まるで教養が無い人間には人権が無いかのような脅迫的な広告がズラズラと並んでいる。この前プチブームになった(?)『君たちはどう生きるか』も、別にあれを読んでいないからといって白い目で見られるわけではあるまい。(実際、本の内容もそれほど優れたものでは無いし)

 

僕の考えでは、およそ世間一般の人間にとって、教養というのはそれ自体「知識」とほとんど同義で使われているというような印象を受ける。教養のある人間とはそれすなわち専門的な知識を持っている人間とか、膨大な量の豆知識、ライフハックなどを知っている雑学王を指している。

 

確かに日常会話で使うにはこの程度の認識で良いだろうが、もう少し、教養について考えてもいいんじゃ無いだろうか。

 

実際に、教養があるなと思うような人間に何度か会ったことがある。

 

高校の頃、面白い教師がいた。授業に全く関係のない話をペチャクチャ喋りまくる国語の教師だった。別にクラスの誰も聞いていないのだが、この話の内容が、聞いてみるとかなり面白い。例えば、さっきまで日本の古典の話をしていたはずなのに、なぜか急に宇宙の話に移ったりしている。宇宙空間でどんな現象が起きるのか、宇宙で人間が活動するとどうなるのか、宇宙人はいるか、、、

かと思えば、次は数学の定理の話をしていたり、夏目漱石について延々と魅力を語ったり、時には自分の近所に設置されている自動販売機の規則性について話したりもしていた、そんな人間だった。話の終わりにはいつも「いやあ、面白いですね」と呟いていた。確かに面白かった。そして何よりも印象的だったのは、毎度毎度とても楽しそうに話すことだった。

その教師、残念ながら、僕が卒業する前に辞めてしまった。何が理由かは分からないが、面白い人だったなという感想だけが高校生の自分に残った。

 

そしてそれから大学に進学したわけだが、僕はそのころ若干の中二病を患っていたため、哲学なんかに興味を持っていた。今考えたらだいぶアホだ。

もちろん大学で哲学(哲学史)の講義を取ったわけだが、初回の授業で教授に、「この講義を受けても、皆さんの人生が豊かになったりはしないし、この講義で学んだことが何か人生の一場面で役に立ったりもしない」というようなことを告げられた。

 

よく学生が勉強をしてるときに愚痴る文句の一つに、こんな勉強なんの役に立つんだ、というような言葉が出てくる。確かに、学生時代は半ば強制的に学問を習うわけだから、このような疑問が浮かぶのも当然だろう。しかし悲しいことに、この文句、いい歳こいた大人も言っているのだ。何か新しい自然科学研究が発表されるたびに、マスコミは「で、それがなんの役に立つんですか?」という質問を真っ先に投げかける。

結論から言うと、役には立たない。確かに将来的には何かの役に立つものが多いだろうが、今、その研究が何かに即座に役に立つかと言われるとこれは否定せざるを得ないし、将来的にも何の役にも立たない研究もあるだろう。しかし、だからといってその研究が無価値だと言うわけではない。

 

そもそも学問というものの始まりは、「もっと知りたい」という人間の根源的知的欲求から来ている。何かを見て、どうしてだろうと思ったら、それはもう学問の始まりなのだ。それが人類の歴史の中で少しずつ洗練されてきたに過ぎない。

大学の教授とはそれを極めた人間だ。ある特定の分野、人間の行動様式や自然現象に強烈に心を惹かれて、未知というものに全力で知的好奇心を沸き立たせる、いわば変態である。

だから、面白い。

研究者の、特に自然科学を研究する人間というのは、いつも自分の研究分野について語るとき、目が輝いている気がする。

この変態たちが、何か世の中のために、後世の役に立つために自分たちの研究をしているかというと、勿論NOだろう。どちらかというと娯楽的感覚で、「面白い」からやっている人間が殆どだ。しかし、娯楽に大量の金をかけるほど、この国も潤ってはいない。なので、そういった楽しい楽しい研究を続けさせてもらう建前として、将来的に役に立つとか、何かに有用であるとかの大義名分が必要なのだ。

 

故に、大学生にもなって「勉強なんてなんの役に立つんだ」などと言っているような人間は、そもそも大学には向いていない。何か「役に立つ」ことを学びたいのなら、ビジネススクールや専門学校にでも行けばいい。そっちの方がお似合いだ。

高校までに習う学問というのは、大学で学ぶことのできる学問のほんの上澄みを掠め取った程度の内容で出来ている。さらに、日本の教師の質もあまり良いとは言えないので、中高生はこの「学問の面白さ」に気づく機会があまりないような気がする。

しかし、大学生になった途端、その視界は急激に広がる。あらゆる分野の専門家が、90分間自分の好きなことについてものすごい勢いで喋り倒す。これがつまらない訳がない(もちろん、しゃべりがつまらない教授もいるにはいるが)。

 

さて、話を教養に戻そう。結局、教養とは何なのか?これについて、僕はこう断言することにしよう。

 

 

 

 

 

教養とは、すでに持っている知識の総体ではなく、まだ知らない知識に対しての態度のことである。

 

 

 

 

 

日本のほとんどの大学は入学したばかりの新入生に「教養分野」と呼ばれるいくつかの講義を受けさせている。この教養分野の意義、僕の解釈からすれば、これは幅広い知識を学生に持たせる、というよりも、幅広い知識の諸グループに対して学生に興味を持ってもらう、という事の方に向いていると思う。

そして、僕の今まで見てきた教養のある人間とは皆、この「知らないことに対して興味を失わない」人間だったと思う。

そしてこれは何も大学に限った話ではない。もっと日常的な部分に直結している。身近な自然現象、近所に設置された自動販売機の規則性、自分の好きなアニメ、ゲーム、、、。生活の中で、あらゆる疑問に対して面白いと思える心、興味のあることに全力で取り組んでいける姿勢、これを教養と呼ぶんじゃなかろうか。

 

僕の中で、教養という言葉は知的好奇心という言葉で言い換えられる。教養のある人間とは、知的好奇心を失わない人間のことだ。僕たちの身の回りに、面白いものは充ち満ちている。

 

これは前回の趣味の話とも繋がる。前回、内面的な娯楽について書いたが、これは教養のある人間にしか享受できない。教養のある人間にとっては、海外に旅行に行ったりすることよりも、宇宙について語り合ったりする方が何倍も面白いのだ。

 

現在文部科学省の掲げる新学習指導要領の中に、「生きる力」というものがある。その説明の一つには、人間が主体的に学ぶ意欲を発揮し、知識へと積極的に関わっていくことの重要性が述べられている。

今、日本に住む大人のどれほどが、この「生きる力」を身につけているだろうか。学問の本質的な部分は、知識ではなく、知的好奇心の方にあるのではないだろうか。

 

僕が卒業する前に学校を去ったあの教師、今は何をしているだろうか。その知的好奇心を生かして、何かの研究者になったりしていれば面白いなと考えている。

またいつか会えるかな。

 

さきほど紹介した哲学の教授、実はあの発言には続きがある。それを紹介して、この駄文を終わろうと思う。僕の記憶の中でかなり改竄されていることは断っておきたい。

 

 

 

「この講義を受けても、皆さんの人生が豊かになったりはしないし、この講義で学んだことが何か人生の一場面で役に立ったりもしないだろう。しかし、皆さんの人生を少しだけ面白くすることなら出来るかもしれない。退屈というのは、いつも教養のない人間の口から語られる。哲学を学べば、ここから一歩も動かずとも、退屈ではなくなります。」

趣味と教養について 前編

最近、自分の中で価値観が変わったなと感じる。といっても、怪しい宗教よろしく突然ある時点から価値観がガラッと180度変わったとか、そういった体験ではなく、むしろ長い時間をかけて、歯の矯正のように少しずつ変わってきた。第一、自分自身そのような、人生において価値観が正反対になってしまうような体験には些か懐疑的だ。もしそのような体験をした人がいたのだとしたら、さぞ薄っぺらい価値観だったのだろうと同情してしまうかもしれない。

話がそれてしまった。で、一体どんな価値観が変化したんだという話だが、自分はつい最近まで、「趣味信者」であった。信者などという言葉を使うと、まるで宗教か何かのように聞こえるが、まことにその通り。趣味は宗教である。

さて、この趣味教だが、自分は幼少の時からまんまとこの宗教に入信していた。小さい頃の趣味はサッカーとビデオゲームだった。ゲームの方は今でも趣味として残っているが、サッカーは11人必要なのでコミュニケーションの苦手な自分にとって趣味として続けるのは非常に困難だった。しかし、今ではその運動へのモチベーションはダンスへとシフトしている。自分の人生を振り返ると、趣味を初めて持ち始めた幼少の頃から現在に至るまで、常に自分は趣味に取りつかれてきた。仕事や日常生活の家事以外の時間は、ほとんど趣味に費やしてきた。当然、それを自分は何ら異常だとも感じなかった。なぜなら、自分以外の人間もみなそうだったからだ。家族、友人、恋人、自分の周りの人間はみな何かしらの趣味を持っており、みな休日は気が狂ったようにそれに取り組む。好きこそものの上手なれとはよく言ったもので、人間の趣味に対する活動エネルギーはとんでもない。その情熱を仕事などにも向けられればいいのだが。

閑話休題、こういうこともあって、人は誰しも趣味にいそしむものだという価値観が長い長い時間をかけて自分の中に形成されていったのだった。

大学時代、変な奴と知り合うことになった。同じ学部で、一緒に講義のあとメシを食べに行ったり、時たまに映画を見に行ったりする程度の仲だった。そいつはなかなかのハンサムで、勉強もでき、自分から見ればかなりの完璧人間だった、"ある点"を除いては。

ある日、ふとそいつに「休日には何をしているんだ」と尋ねてみた。そいつは地方から下宿しており、大学から徒歩10分もかからないような場所に住んでいた。あまり特定されるようなことは言いたくないが、自分の通っていた大学周辺は自転車さえあれば遊ぶには事欠かない場所だった。そこで大学生活を謳歌しているんだろうと踏んだが、返ってきた答えは「いや、べつに。」という一言のみだった。

 

「どこかよく行く場所はないのか。」

「いや、ない。」

「部活やサークルに行っているのか?」

「いや、そんなものには入ってない」

「それじゃあバイト漬けか?」

「バイトはしていない、仕送りだ。」

 

ここで、自分はほほん・・・と思った。なるほど、こいつは極度のインドア派で、いつも家でゲームなりマンガなり映画なりを貪っているのだなと決め込んだ。そうなると、インドア派の自分ともかなり趣味が合うのではないか、そう思って、少しいい気分になった。

 

「なるほど、じゃあ家では何をしているんだ。」

「何も。」

 

当惑というほかなかった。そいつは明らかに、この一人一趣味の時代、全国民趣味時代に取り残された人間の一人だった。しかし、これは自分の主義に反する。人は誰しも趣味を持つべきである。

本当に趣味はないのかと尋ねると、娯楽をやらないわけではないが趣味は特にないと返ってきた。当時の自分にとって明らかに異質な人間として映ったのは言うまでもない。

恐らく、そのころの自分には「なにもしない」ということが全く持って想像できなかったのだろう。「なにもしない」をするということを全く理解できなかった。

しかし最近になって、同じような人間と出会う回数が増えた。それに伴って少しずつ「なにもしない」をできるということがどういうことかを理解してきた。

そして、今に至っては「なにもしない」を自分でするようになってきた。そして驚くべきことに、これがなかなか、いいものだということに気づいた。

なにもしないとは言っても、寝るのとは違う。何もしないことで自分の内面と向き合ったり想像力を働かせたり、ちょっと難しい考え事までできるようになる。いずれも趣味をしているときにはできないようなことだ。

さいころ、昔の人間はさぞ退屈だろうと考えた。持てるような趣味もない、ひどい時代だ、そんな中発狂せずに暮らせるなんて異常他ならないと。

しかし、考えてみれば、異常他ならないのはむしろ現代の方だ。いきすぎたコマーシャリズムとメディアの「趣味をしろ」という洗脳に私たちがかかっているだけだ。何かをしなければならないという強迫観念は江戸時代にはなかったはずである。

旅行に出かけた男女。そのうちの一人(どちらでもいい)が、長時間バスに揺られた後、ついに音を上げる。「もうたくさんだ、せっかく北海道まで来たのに、あるのはだだっぴろい自然だけ。まったくもってつまらない!」と、こんな小噺もあるが、北海道にきてまで旅館のレジャー施設で遊ぶというのなら世話ない。都会の喧騒から離れて、普段趣味に埋もれて過ごすことに疲れた人間が、何もしないを行う。旅行とはそういうもんじゃないだろうかと最近は思うようになってきた。

 

かくして、自分は趣味という呪いから解かれたわけだが、まだ社会はこの呪いにとらわれ続けているようだ。何もしないのを嫌がり、暇を嫌悪し、常に何か面白い外的刺激を享受しようとしている。

もっと内面的な娯楽を楽しんでみてもいいんじゃないだろうか。

と、ここまで書いてきたが実はもう一人、自分の狭量な価値観を矯正するのに貢献した人物がいる。「退屈というのは教養のない人間の言葉である」と一刀両断する大学時代の教授だが、この話はまたいつか。

2019冬アニメレビュー「約束のネバーランド」

2019年の冬アニメは、僕の見た限りでは「良作揃い」だった。かぐや様に約ネバ、えんどろ~やわたてんなど、どれも見ごたえのあるアニメだったと感じる。

ここでは今期アニメの中でも特に面白かったアニメの一つ、約束のネバーランドをレビューしていく。

 

 

 

 

約束のネバーランド

みんなが大好きノイタミナが送る新しいアニメは、週刊少年ジャンプ連載中の超人気漫画、『約束のネバーランド』だった。僕はアニメを見るまで、恥ずかしながら原作を読んだことがないどころか、「約ネバ」という名前までほとんど聞いたことが無かった。しかし、思い返してみればこれはある意味好都合だったかもしれない。それほどまでに、この作品には驚きと興奮が詰まっていた。

前情報を手に入れようと紹介サイトや原作のレビューコメントを読んでみたが、どれもこれも「ネタバレ見るな!とにかく見ろ!」としか書いておらず、見る前から自分の中でかなりの期待値はあったが、その期待を裏切らない展開を見せてくれたと個人的には思う。一方で、予測できる人には割と予測できる展開のため、第一話でどれほど面白いと思えるかでこの作品全体の評価が決まりそうだ。何はともあれ、まったくの事前情報なしで約ネバを見た僕が、このアニメで受けた衝撃を、ここでは書いていこうと思う。もちろんネタバレもがっつり入っているので、まだ見てない人は第一話を見てからもう一度来てほしい。

ちなみに、ノイタミナというのはアニメーション制作会社の名前ではないので注意。

 

 

 

 

・作画

~丁寧かつ分かりやすい~

さすがノイタミナというべきだろうか。アニメーションは最終回までほとんど崩れることはなかった。エマやノーマンの一挙手一投足が丁寧かつ分かりやすく動いており、非常に安心して見られた。もちろんノイタミナだからというのも理由として挙げられるが、これはどちらかというとキャラクターデザインのおかげだと感じた。本作でキャラクターデザインを努めるのは嶋田和晃。動画工房出身。代表作は『ヤマノススメ』や『魔法少女なんてもういいですから。』などが挙げられる。これは個人的な感想だが、彼のキャラクターデザインはシンプルで動かしやすさに重きをおいており、あまり線を描き込んだりはせず、シルエットやアニメーションでキャラクターの魅力を引き出そうとしているのが分かる。キャラクターデザインでは、アニメーションの見やすさというのが重視される。動かしにくい線を削ったり、動いても崩れないように顔のバランスを整えたりすることが大切になってくる。原作マンガのキャラクターデザインでは、作画を努める出水ぽすかの特徴が非常に色濃くでており魅力的だが、その魅力を失わせず、なおかつアニメーションとして破綻しないように、という非常に難しい課題を見事にこなしていると感じた。作画もそれほどケレン味のある作画を使わず、あまり特定のアニメーターの特徴が出ているとも感じなかったが、そのあたりもキャラデザと総作画監督を務める嶋田の塩梅だろう。もちろん作画が全く動かないという意味ではない。作中序盤で登場するシスター・クローネはそのユニークなキャラクターに合わせて、非常にコミカルかつパワフルな動きを見せる。中盤の鬼ごっこのシーンは必見だ。個人的に彼女はとても魅力的なキャラクターだと感じた。

キャラクターたちの表情は特に必見だろう。これは原作も同様だが、かなり「アニメ風」なキャラクターデザインをしているため、例えば絶望したり、とてもホラーチックな表情になったりしたときのインパクトは非常に記憶に残りやすい。作品全体を通して基本的に上のような表情のパターンは画一的なので後半だとやや飽き飽きしてくる部分もあるが、重要なシーンで急に顔のハイライトやシワが増えるというのはメリハリが出ており、見てて面白かった部分である。

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・音楽

~ホラー的音響演出~

OP曲ED曲共に素晴らしい完成度であり、特にED曲の『絶体絶命』は作品の雰囲気にもマッチしていて何度もリピートして聴いた。声優陣もそれぞれキャラに合った配役だった。特にエマ役の諸星すみれはかなりハマっていたと思う。

劇伴については、音楽の専門的な知識があまりないので詳しいことまでは分からなかったが、全体を通してピアノやバイオリンなどの落ち着いた音色が際立つ曲が多かった印象だ。個人的に好きなのは鬼ごっこの時の劇伴。静かなイントロから雰囲気は崩さず徐々に軽快なテンポへと変化するのは見事としか言いようがない。


The Promised Neverland Original Soundtrack - Tag 鬼ごっこ

 

音響での演出も約ネバの見どころ。ホラー演出において音響はもっとも効果的であり、多くの作品で音響による演出がなされている。約ネバも例外ではない。

例を挙げるならば第一話の劇伴の使い方が最も顕著だろう。コニーの死体を見た後から流れ始める劇伴は、本作のメインテーマであり、艶のある女性ボーカルの歌声から、サビでは一気に壮大なメロディーへ進行する。エマとノーマンが脱獄を決意する瞬間にサビが訪れ、視聴者の気持ちを高ぶらせていった後、曲の途中にも関わらず急に劇伴がなくなり、ガラスを割るような効果音と共にイザベラの恐ろしい顔が画面に映る。

これは一例に過ぎない。このような音響での演出は作品全体を通して行われており、しっかりと視聴者を作品の世界へと没入させるようにできている。見返す際には音響に耳を澄ますのもいいだろう。

 

 

 

・ストーリー

~良くも悪くも展開ありき~

さて、ここからはネタバレ全開で作品のストーリーを語っていこう。約束のネバーランドという作品は、早い話が脱獄モノであり、子供=囚人 VS 大人=看守というような構図でストーリーが進行していく。しかし、第一話の前半までは、脱獄モノであるという気配を一切見せないまま物語が進むので、後半で全体のストーリーが提示されたときに驚いたのは言うまでもない。しかし、一話冒頭のアバンから檻が画面に映ったり、前半部分で不穏な壁だったり柵だったりが映りまくるので、察しの良い人であるならばすぐにその仕掛けを見抜くことができるだろう。おそらくここが物語全体の展開で一番驚く部分であり、はっきり言ってここで驚くことができないならその先の展開ではほとんど驚くことはないだろう。先ほど第一話でどれほど面白く感じるかが大事だと書いたのは、第一話を超える衝撃を持つ話が無かったからであり、第一話でつまらないと感じるならば恐らくその先もつまらないと感じるだろう。しかしここは個人的な部分もある為、友達に紹介するならば、切るとしても二話ぐらいまでは見るのをお勧めするといいかもしれない。

今までは自分たちの家だと思っていたハウスが、実は化け物の食材=人間の子供を育てるための農場であり、自分たちは家畜なのだという事実を少年少女たちは知ることになる。一話の時点で事実を知っているのはわずか三人であり、ここから子供たちの脱獄計画がスタートするわけだが、物語の展開は実は非常にゆっくりとしたペースで進む。シリーズ構成、脚本の腕前というべきか、どれほど遅い展開でも、各話しっかりと来週が楽しみになるような終わり方を見せてくれる。この辺りは進撃の巨人などでも特に優れた部分だったが、約束のネバーランドはそれと同等か、あるいはそれ以上のワクワクを毎週私たちに与えてくれた。

しかし、脱獄モノである以上、この作品は良くも悪くも展開ありきだった。どれだけキャラクターが魅力的でも、そのキャラクターたちがいつまでも実行に移さない計画をチンタラ練っている姿は、やはり途中で少しばかりのテンポの悪さ、停滞感を見せていたのは否めない。上で書いたように、構成で若干のごまかしが効いているものの、「こいつら本当に脱獄する気あんのか」と思ってしまう視聴者もいるかもしれない。

終盤の展開も個人的にはマイナスだった。耳に取り付けられた発信機や、ハウスの全員を連れて行きたいというエマの希望は、物語のカタルシス、伏線回収のために乗り越えられるべき壁として提示されたのかと思っていたが、物語の終盤では、結局一度否定された方法を採用したり、結局全員は連れて行かなかったりと、かなり期待を裏切る展開だったと感じた。一応それなりに理由付けはされているので違和感はそこまででもないが、やはりどうにかしてでかい困難を乗り越えて欲しかった。

全体的に見れば、展開に矛盾や「そうはならんやろ」というようなツッコミどころもあまり見受けられなかった。大人たちがあまり実力行使的に脱獄を阻止しないのも、イザベラの過去を通してしっかりと理由付けがされており、崖をどう渡るのかという問題も、まあ納得のいく形で解決されたので、話はすんなりと頭に入ってきた。あまりに難しすぎるようなトリックや計画はないので、見てすぐ理解できる分かりやすさも備えていた。

 

 

 

・演出

~幅広い演出~

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このシーンは第二話前半の1カット。

画面手前に被写界深度でぼやけさせた木と草むら、その奥にエマとノーマンがいるが、どちらも画面中央に小さく描かれており、後ろの背景の比率に圧倒されている。

この構図、僕は「約ネバレイアウト」と呼んでいる。別に約ネバだけに使われる構図ではないのだが、この構図は作品全体に頻繁に登場する。手前に物を配置することによって「誰かに見られているかもしれない」感を出し、さらに遠近法によって小さく描かれたキャラクターと対比させ、閉塞感や窮屈さを演出することも可能にしている。この構図はこの作品のテーマと非常にマッチしている構図だと感じた。

全てがすべてこだわりぬいたレイアウトというわけではなく、よりの絵や引きの絵は割と無難に使われているという印象を受けたが、カメラワークや演出全般では挑戦的なことも行っている。

 

 

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懐中時計を背景と同じレイヤーに描き込む演出だったり・・・

 

 

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POVで階段を上る演出だったり・・・

 

 

 

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カメラはフィックスで、劇伴を鳴らさず長回しでノーマンを映す演出だったり・・・

 

 

もちろん、違和感のあるものも存在する。階段をPOVで登るシーンは、はっきり言って助長だと感じるし、演出意図は伝わるが然るべき緊張感を感じるまでには至っていない。最近のアニメではPOVを使ったカメラワークもかなり増えたが、正直まだまだ発展段階というところだろうか。しかし、こういたった挑戦的な演出を、ジャンプアニメでしっかりとやってのけたのは評価すべきところであるし、こういう演出こそ、雰囲気としっかりとマッチすれば極上のシーンが生み出せる。事実、約束のネバーランドはそうした演出の試行錯誤によって、上に挙げたもの以外にも素晴らしいカットが数えきれないほどあるのだから。

 

 

 

 

・キャラクター

エマ、ノーマン、レイ、それぞれ魅力的なキャラクターであり、誰一人としてつまらないキャラクターはいなかった。出てくる登場人物は多いものの、名前を覚えておけばいいのは基本的にこの三人だけなので、キャラクター回りで混乱するようなことはなかった。

どのキャラもミスリード的な面白さを持っており、最後まで読めない楽しさも味わうことができた。物語の途中で割りと重要そうなキャラが二人も退場することになったのは驚いたが、特に違和感のあるものではなかった。

特に魅力的だったのはやはり大人側のキャラ達だろう。それぞれに回想があるため子供たちよりもむしろ内面の理解はしやすいのかもしれない。

化け物たちの陣営ももう少し描写してほしかった部分ではあるが、アニメでは物語が農園内で完結する以上それ以上世界観を広げるような描写は制作側もしたくなかったのだろうと想像できる。最終回では、どのキャラクターもその後が気になるような終わり方をしていたのがなんともニクい。

 

 

 

・総評

「とりあえず、第一話だけ。」人に勧めるならそう言うのが正解な気がする。それほどに、展開のインパクトが大きい作品だった。ジャンプ作品としてはかなりの異色作で、激しいバトルや熱い友情などもそれほどないが、すくなくとも今のジャンプ作品の中で最もとがったものであることは間違いないだろう。もし、あなたが第一話を見て、大きな衝撃を受け、悲鳴まで上げてしまったのなら、ぜひとも最終話まで見ることをお勧めする。途中で展開の遅さにイライラしたり、かなり多めな会話描写にうんざりしたりするかもしれないが、見事な作画や音楽、演出などをみれば、むしろそういった退屈なシーンにこそ物語の鍵があるかもしれない。くれぐれも、漫画のネタバレは厳禁で。これから続きを読もうとワクワクしている真っ最中だ。

 

 

8.5/10 GREAT

 

 

良かった点

・先の読めない展開

・没入感を生み出す演出

 

悪かった点

・中盤以降のテンポが遅い

・物語終盤のインパクトが弱い

 

 

 

 

 

既に放送終了からかなり経っておりレビューが遅れてしまった。悲しいTT

今シーズンのアニメももしレビューしたくなるような作品があればレビューしたいし、これをレビューしてくれというものがあればぜひともコメントで書いてください。